大学生
 ほんとはチョコよりキスが良い


レポートの締め切りに追われ、傍らの資料をひっくり返してはパソコン画面と格闘すること数日。
不眠のせいで吐き気と寒気までしてきたが、そもそもこの課題提出自体、高熱でできなかった課題の代替案なのだから。
途中で何度か同居人が飲み物や軽食を運んできたり、休養を促していた気がする。喉が渇いて手を伸ばしたカップがほの温かかったり、いつの間にか食器がさげられたりしていたから、多分いろいろ面倒を見てもらっているのだろうけれど目の端がちかちかと傷むのを我慢しながら、ディスプレイの文字を追っていた。

同居人に車を出してもらってどうにか構内まで乗り込んだことは覚えている。
手馴れた運転で心地よく体を揺らされて、あとは朧げに、赤信号や見慣れない壁を視界に納めていた。見慣れたカーペットが目に飛び込んだのが最後だったから、多分家に帰り着くまでどうにか意識はあったのだろうが、それがおそらくは最後だった。


人の足音と家具や食器の触れる音。
睡眠と意識を乖離させていくその音は人の生活の音で、眠りを欲する一方幸せでいつまでも聞いていたい気持ちになる。
むー、と唸りながら体を起こすと毛布がずるりと床に落ちた。体中が嫌な音を立てそうになるのは、無茶な寝方をしたせいではなく今までの不摂生な生活のツケだろう。いつ意識をなくしたのかすら覚えていない体はちゃんとソファに収まっていて、体がひえないようにと毛布もかけてあった。
彼らしい、と口元が緩む。

「起きたのか」
ごそごそと動き回る音を拾った同居人がこちらへとやってくる。
寒い、と呟けば落とした毛布を拾い上げてもう一度かけられた。
「もう少し寝ておけ」
頬を軽く撫ぜていった手が気持ちよくて、自分から頭を擦り付ける。凄く甘えたい気分で、もう少し触っていて欲しいと思う。
「顔が蒼いぞ、血糖値下がってんじゃねーのか」
睡眠をとった割りに血色のよくならない頬を、希望通りに大きな手のひらで包まれてほうっと息が漏れる。
オレは年中栄養不足なのですー、と嘯いて背中に両の腕を回すと、まずは何か食え、と窘められた。
手近な机の上に置いてあったアーモンドチョコの包みから一粒、口元に押し当てられる。
かり、と噛り付けば甘味がすぐに口に広がり、心なしか体に染み渡る気がした。

けれど。

「あのねー、黒わんー」
「何だ?別の物のがいいか?」
「オレこっちのほうがいいなぁ」
薄い、男らしい唇を人差し指でそっと辿る。

呆れたようにため息をつくその唇が、優しく落ちてくるのをちゃんと知っている。


[チョコレイト五題] 05. ほんとはチョコよりキスが良い


 不眠症の眠り姫


目覚めた瞬間、脳裏が後悔で埋めつくされる――そんな経験をしたい人がいるわけないのだが、人間稀にそんな体験を引き寄せてしまうもので。
黒鋼の目覚めは最悪だった。
不手際、不可抗力。どんな理由やきっかけがあったにせよやってしまったのが自分自身である以上、言い訳は出来ない。

ぐちゃぐちゃにたわんだシーツに、男二人が横になっている異常事態。…身に覚えがありすぎる。
もう片方の当事者は未だ眠りから目覚める気配はない。
朝の日差しはカーテンに遮られ、部屋は薄暗い。胸板に額を押し付けてすうすうと穏やかな寝息を立てる相手の姿に歎息する。
いくら細身でもこれは「男」なのだ。


のめりこむほどではないとは言え、女が嫌いなわけではない。むしろ柔らかな体を抱いて得る快楽は健全な男の欲求として自然だと思っている。
なのに、だ。
(穴があったらなんでもいいのかよ、俺は)
自分自身に毒づきたくなったとしても仕方がない。

髪と同じく淡い金色の睫毛。その瞼に隠されている瞳は蒼。
黒鋼よりも年上のこの男は担当教授を介して幾度か顔を会わせたことがある、その程度の認識しかない人物だった。まともに会話したのすら昨夜の教授主宰の飲み会が初めてかもしれない。
だが、奇人変人の多い学内でもその際立った容姿とともに特異な人物として有名だった。

黒髪の担当教授はその美貌を歪めて彼をこう評した。
「あれはね、三大欲求をどこかに置き忘れてその代わりに知識欲だけつめこんで生まれてきたのよ」
本を読んで寝食を忘れても逆はない。生命の生存欲求と引き換えに類まれな見てくれと頭脳を得たというのが専らの噂。
呆れと同時に彼女の台詞が教え子を案じてのことだとも分かる。面白いもの好きで退屈だといってははた迷惑なお祭り騒ぎを巻き起こす教授だが、情の薄い人間ではないと知っていたし、そんなところは好ましかった。
かろうじて積極的に摂るのは酒で炭水化物よりもアルコールでのカロリー摂取が多いに違いない。
自身も酒豪である彼女にこう言わしめた彼と、飲み会で用意された酒を全て空にした。酒がなくなったのならば長居をする必要もない。酔いつぶれた人間を風邪を引かないようにだけしてさっさと帰ろうとした黒鋼の袖を引っ張ったのは彼。
蒼い瞳をへにゃりと笑みの形にして、君お酒強いねーと声をかけてきた本人にも酔いの気配は遠かった。


「飲み足りなくなぁい?うち来るー?」
その誘いにどうして乗ったのか。二人で飲みなおすことにした。

ありったけの酒を並べて飲みながら、時折他愛もないことを話していた。黒鋼は専ら相槌を打つだけだったが、相手は気分を害する風もない。
静かな時間だった。


どこでスイッチが切り替わったのか。何をとち狂ってしまったのか。
肝心のそこだけが曖昧なままで、二人してベッドにもつれ込んだ挙句、相手の体に溺れた。男相手の経験がないのは同様で、いちいちその覚束ない仕種にさえ興奮していた。
声を聞きたくて、触ればどんな反応をするのか知りたくて、散々に体を揺さぶったのを覚えている。


行為の痕跡もあらわな肢体とは裏腹に、未だ名前さえ聞いていないことに気づいて頭を抱えたくなったが、朧げな記憶と鮮明な記憶、どちらを辿っても拒否はなかったように思う。そうなれば非難されても連帯責任だ。そう腹をくくって相手の肩を強めに揺さぶる。
振動に睡眠が途切れたのか眉根がぎゅっと寄せられ、瞼がそろりと持ち上がった。眠気がまさって完全には焦点の合わない瞳で黒鋼の顔を見上げてくる。拒絶の色がないことに内心ほっとした。
「…なあにぃ?」
「起きろ」
「ん、…ゃあ」
こどもの様にむずかって、起こそうとする黒鋼の手を払い除けるものの、体は温もりを逃がすまいと擦り寄ってくる。
「もうちょっと、いっしょにねるのー」
肩に収まりのいい場所を見つけたのか、あったかい、と呟きそのまま呼吸が深くなっていった。


『食欲に睡眠欲、さらには性欲までどこかに落としてきちゃったような子よ』

「…おい」
だったら今、自分の目の前で起こっている現実は何だというのか。
一番の問題は、首筋をわずかにくすぐる寝息を悪くないと思っている自分なのか。


[五つのお伽噺] 01. 不眠症の眠り姫


 しかし三度目は?


一度目は過ち。
二度目は事故。

しかし三度目は?



「オレ達学習能力ないのかなぁ?」
そう言いながら腕の中の金髪は離れる素振りも見せずに、猫のようにすり寄ってくる。
「言うな…」
相手の部屋やラブホでうっかり誘惑に負けるのと、自分の部屋に相手を上げた挙句のこんな行為に及ぶのでは心情的に大いに隔たりがある。

嘆息しながらも相手の体を手放そうとせず、自ら無意識に抱き締めていることを黒鋼はまだ気づいていない。
長い前髪を撫でるようにかきあげてやれば、ファイが目を細めて笑った。

二人はまだ温かな布団の中。


 幸せご飯


固形、あるいはそれに準ずる食品はカロリーメイトかウィダーインゼリーしか口にするのを見たことがない人間が何故か弁当箱を持参していた。
実は味覚がない、食欲が存在しないなどと噂された人間がだ。

ざわめきが一斉に広がった研究室で唯一動じる気配のない黒髪の美女は、つつとファイに近づいて尋ねた。
「お弁当に切り替えたの?一人分にしちゃ随分量が多いみたいだけど?」
「違いますよー、これは人に作ってきたんです」

確かに小さいとはけして言えないサイズである上に、二段重ねとあっては中味もかなりの量だ。
「自炊もするけどあんまり得意じゃないって言ってたし、でも人一倍食べるのにお米とかパンみたいな炭水化物だけだと体に悪いしー可哀想かなぁって」
誰に、とは言っていないが美貌の女教授の脳裏には前の飲み会以降ファイが懐いた学生がすでにピックアップされている。

「人の心配もいいけれど、まず自分が正しく生活なさい。貴方一度研究に没頭すると何を口に入れても分からなくなるんだから」
「んー、でもこのあいだ食べたご飯は美味しかった気がします」
「何食べたの?」
「コンビニのおにぎり。高菜の入ったやつだったと思うんですけど…」

「自分で買ったの?」
珍しい、と目を丸くさせる教授に(たとえそれがコンビニ食であっても)ファイはゆるく笑って首を振る。
「分けてもらったんです。朝ごはん食べないでコーヒーだけで済ませようとしたら『ちゃんと食え』って怒られちゃいましたぁ。
自分が食べるのに買ってたおにぎりだったから悪かったかなあ、って思ったんですけど」
最近のコンビニのご飯って案外美味しいんですねー。そう言って呑気に笑う彼はまだ気がつかないのだろう。美味しいと思えた理由には。

(まあいいわ。この様子なら、どうせそのうち気づくでしょうから)

自分の手がけた料理を誰かに食べてもらいたいと思う気持ちにも。

手製の弁当を手にしながらワクワクと人待ち顔で携帯の画面を見つめるファイの横顔を眺め、零れたのは温かな微笑みだった。


 幸せご飯その後


「黒たーん、お弁当一緒に食べよぉ」
「妙な呼び方すんじゃねえ!
だいたい弁当ってお前の昼飯だろうが」
「久しぶりに料理したら面白くなって、つい作りすぎちゃったんだよぅ。
きのこの炊き込みご飯とほうれん草とチーズの入ったミニオムレツでしょー。きんぴらごぼうに肉味噌のキャベツ包み、ミニトマトとベーコンの炒めものとブロッコリーのおかか和え」

だから食べるの手伝ってー、と差し出された弁当箱の中味に黒鋼はあっさりと陥落した。


「明日は豆ご飯と唐揚げだよー」
「…食う」


 続・幸せご飯


「今日はたぬきおにぎりに空豆とイカの炒め物、鶏ささみの一口カツ、若竹煮でしょ、ほうれん草のおひたしにきのこのチーズ焼き
、キュウリと茗荷の酢の物、人参のグラッセとタラモサラダ」

「いい加減一人で食えよ。何で毎日俺に声かけてくんだ」
「だって一人でご飯食べるの寂しいよぅ」
「…」

「黒りん南瓜の煮付けは好きー?
明日の下ごしらえしてきたんだー」
「…」

ほだされた自分が一番悪いのは知っている。
奇妙なツレとなった男の手料理がやたらと旨い事実が少し悔しい。


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