日本国永住
 氷面解けて


誰が言い出したものやら。
「あの乱暴者がどんな顔をして口説き落としたのか」
ぽつりと落とされた言葉に、一斉にファイに視線が注がれた。


このところ侵入者も魔物の襲撃も聞かれず、上座で寛ぐ姫巫女を筆頭に皆が長閑な昼下がりを満喫していた。
女性が集まれば雑談の中身も自然と恋愛関係が中心になってくるのか、可愛らしい話からちょっとした人生相談のようなものまでが和気藹々と話題に上がっていたのだが。
小さな興味は波のようにざーっと一座に広がった。
不躾にならぬよう抑えてはいるものの、皆興味津々の面持ちは隠せないでいる。
不機嫌な一瞥を寄越しただけで鬼も裸足で逃げ出しかねない忍者の凶悪な人相を思い出しているのだろう。
主たる姫君は、まあ、と面白そうに笑い声をこぼすだけで助けてくれそうにはない。
むしろ、笑んだ瞳が雄弁に「私も聞きたいですわ」と訴えかけてくる。


逃げ道はなく、黒鋼は相当嫌がるだろうがこれはちゃんと言わないといけないなあ、とファイは自分の記憶を辿る。
が、旅の記憶、日本国の記憶、どれを浚ってみても。
「…あれ?」
首をかしげる。だが、自分の記憶のどこにもそんな覚えはない。閨の睦言にしても然り。
興味で目が輝いている一堂に、にっこり笑う。
「そういえば、特に口に出して言われたことはありません」
紆余曲折はあったが気がついた時には触れ合うこと、抱き合うことを互いに許していた。
こうして口にして初めて気付く。自分と相手の間には言葉で結んだものがないことを。
そしてそれがけして寂しいばかりではないことも。

そもそも簡単にそのような言葉を寄越すような人でもないのだし却って『らしい』、とファイは至極納得していたのだが皆が口々に黒鋼への非難の声をあげる。特に年若い女官などは我が事のように相手に対して怠慢なのだと憤慨していた。
黒様信用がないなあと言いながら、ファイはヒラヒラと手を振ってそうではないのだと笑う。
「でもね、オレは…」

黒鋼のことを思えば胸の内から暖かいものが染み出す。
鏡でも覗かないかぎり自分の顔は見えないのだから、ファイにはその時自分がどんな笑顔を溢していたのか知るすべはない。
ただ、それに皆が見入って出来た沈黙に滑り込むように、すとんとファイの言葉が落ちた。




「言葉よりももっといろんなものをもらいましたから」









日本国の者は、特に白鷺城に仕える者は、旅に出る以前とは言え黒鋼といえば血潮を浴びて哄笑する荒ぶる姿、その魂までも恐ろしい男だと脅えさえ覚えていた。

けれど、蒼い瞳の佳人は笑う。幸せそうに。
世界の愛しさ全てを惜しみなく溢れさせて。
春の陽だまりのような笑顔。
誰かにこんな風に愛しく思わせることの出来る者ならば、きっと恐ろしいだけの男ではないのだろう。



「あてられましたわねえ」
おっとりとした姫の声が皆が言いたくても言えなかった胸の内を代弁した。


 春の味覚その二 日本国永住設定


「お帰りなさい」
袖が濡れないようにかけられていた襷を取りながらファイが炊事場からひょっこりと顔を出す。
するすると襷を絡め取る指先が茶色に染まっていた。
黒鋼の目線の問いかけに気づいたのかファイがひらひらと手を振ってみせる。
「つわぶきをね、お裾分けしてもらっちゃった。煮込んだの『きゃらぶき』って言うの?作ってみたよ」
この国の言葉が随分上達したものだと思う。まだ単語の間でつまったり、訥々としたりもするが日常の会話にはすっかり溶け込んでいる。

「黒さまー?」
「当分とれねえぞ、これ」
つわぶきの皮を剥いて汚れた指先を掴む。土の匂いがかすかにした。
「うん、蘇摩さんも言ってたー。水で洗っても二、三日はとれませんよって」
爪の間の細かいところまで茶色く染まった手を珍しげにしげしげと見つめる。

日本国に着てから、いつもファイは笑顔を絶やさない。旅の間の作った笑顔ではない。馴染みのない生活で惑うことも多かったろうに、と黒鋼は思う。
思うからこそ、今隣にいることが愛おしい。

「煮る以外に食べ方あるの?」
「干し肉と炒めたのは食ったことがある」
「じゃあ今度作ってみる」
ふふ、と笑ってファイが指を絡める。鈍色の義手の冷たさを躊躇うことはない。
「教えてね、いろんなこと」
もうすぐ夏が巡って、秋が来て、やがて雪の季節になる。
そのたびに一つ一つ、共有するものも増えていくのだろう。

二人で変っていくものと変らないもの。
さしあたっての近い未来は指先の色が元に戻っている頃も同じように互いの指は絡まっているはずだ。


 七夕話その三 日本国永住設定


「ほしあい?」
「星の逢引だからな。別名で『星合』とも言う」
笹に飾られた短冊を不思議そうに撫でて、ファイはもう一度「星合」と口の中で転がした。
「綺麗だね」
桜の季節を終え、日本国で始めて迎える夏は目を圧倒する彩りでもってファイを包んだ。
一日中降りしきる雨と緑の匂いが過ぎ去り、晴れ間が覗くようになった空で今夜は星が一年に一度の逢瀬を果たすという。
見たことのない飾りが城や城下のあちこちで見受けられるようになり、説明をねだったファイに黒鋼が聞かせたのは天の川の対岸に引き裂かれた二つの星の噺だった。
己の責務を疎かにした罰とはいえ、愛しい相手と離れ離れにならなければいけない悲話は、なるほど万国共通で人の心に訴えかけるものらしい。

「笹とてるてるぼうずはいっしょにかざるの?」
町家で見かけた組み合わせがファイには至極不思議に見えたらしい。
「雨が降ったら天の川の水が溢れて川は渡れない。だから今夜は晴れるように、と照る照る坊主を一緒に吊るしてある家も多いな」
「天の川わたれないと会えない?」
「ああ、だから今日雨が降ると催涙雨なんて呼ばれる。涙を零させる雨、だな」
「じゃあ雨がふったら会えない?」
不安そうに黒鋼を窺うファイに、思わず噴出しかける。日常の会話に不便しないものの、まだ語彙が多いとは言えないファイは黒鋼に文句を言う代わりにわざと拗ねた顔をした。
ちょっと不機嫌そうな顔をすれば、面倒くさそうにしながらも黒鋼はこちらを放っておかない。
甘えることを少しずつ、ファイ自身が自分に許し始めている。それを見ているのは忍者にとっても吝かではない。

「天の川が渡れなくなったら…か」
「…」
「あんまり二人が悲しむから、二人を引き離した天の帝もさすがに哀れに思ったんだろうな。雨が降って渡れない天の川にはかささぎが飛んできて、二人が会えるように橋になってやるんだと」
「そっかぁ」
世を越えて、時を越えて、人の心を惹きつける話ならば、結末は幸せな方が良いに決まっている。
星たちが離れ離れになったままでないことに安堵しながら、ファイは黒鋼の肩に頭を持たせかけた。
きっとこの人なら、年に一度の逢瀬と言われても一度掴んだ自分の手を離すことはないのだろうな、と思いながら。


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