日本国永住/ 希色シリーズ
 希色


春の気配が風に混じるようになったうららかな昼下がり、薬院で常備薬の点検をしていた蘇摩の耳に板張りの廊下を走ってくる音が飛込んだ。
小走りらしい軽い足音と衣擦れの音を鋭敏な忍の聴覚は正確に聞き取る。
体重を感じさせない足の運びから相手を察し、作業の手を止めた。

「蘇摩さん、いませんか?」
予想に違わぬ金色の髪の魔術師は常の礼儀正しさもどこへやら、居室を問うのと同時に引き戸に手をかけていた。
珍しいものを見るものだとその様子をまじまじと眺めていた蘇摩の姿にファイは裾を乱して走り寄る。
「あの…っ、黒鋼がお城に来た人に手をあげたって聞いたんですけど…!」
血相を変える魔術師などというものはなかなかお目にかかれるものではない。
少しばかり息が乱れて、言葉が不自然に途切れそうになっているのも、髪が頬に張り付いたままなのも珍しい。
それでも真っ先に気にするのは自分のことではなく、彼をこの世界に留め置いた人間のことなのだ。

「もうお耳に入りましたか」
「本当なんですか!?」
「こたびばかりは姫様も捨て置けないご様子で近くお叱りがあるようですよ」
「…知世姫がそんな風に怒るってことは大変なことですよね」
どうしちゃったの、黒様ー。傍目にも分かるほどにファイの顔から色が引いていくのを見、蘇摩は慌ててファイが勘違いしたであろうことを否定する。

「ファイさん、姫様が怒ってらっしゃるのは殴られた者の方ですよ」
「は?」
出入りの商人の使いの者だったのですけれど、と蘇摩は子細を思い出していた。

戦闘を主とする忍軍にあっても、最強を誇る黒鋼の血の気の多いのは有名だ。その過ぎた荒々しさゆえ過去に一度、知世が異界へと放逐した彼がファイを伴って戻ってきた時にはその様変わりに驚いたものだったけれど。
以前のような暴虐な振る舞いは見受けられないとはいえ、依然として黒鋼が日本国随一の戦士であり忍ある事実には変わりない。
その彼が殺気こそなかったとは言え、武器もない丸腰の人間相手に本気の怒気を隠そうともせず喉元を締め上げていた姿に、蘇摩はじめ忍たちの背筋にも寒気がはしった。
制止する声にすぐに引いたものの、黒鋼があれだけ感情を露わにして怒るのは滅多なことではない。
不承不承ながらも黒鋼の口を割らせたが、己の立場として分が悪いのと知りながら、それでも最後まで自ら全貌を語ろうとはしなかった。たまたま近くで見ていた人間の断片的な話をつなぎ合わせ、被害を主張する人間の話を聞き、ようやく何があったかの流れはわかった。黒鋼が固く口を噤んだ理由も。

だからこそ。

「本人が言わないものを私の口から言うことは出来ません」
不安そうに見つめるファイに蘇摩はきっぱりと告げる。代わりに安心するように、と微笑んで。









「黒鋼相手に命知らずなことをするものですね」
「少々やりすぎだとは思いますけれど黒鋼が怒るのも仕方ありませんわ」

日本国の帝の居城・白鷺城。その城内の更に奥まった場所が、主たる帝とその近親の内向きの住まいとする空間でもある。
公の立場では主従の一線を越えない帝と姫巫女も一旦その立場を離れればそれなりに仲の良い姉妹である。その丁丁発止に周囲がひやひやするような際どい内容があるのは、二人揃って一癖も二癖もあるからに他ならないが。
姉妹のごく私的な語らいのため天照は寛いだ服装で脇息に持たれかかる。
朱唇を袖で覆う様は典雅で美しいが、軽く眉宇をひそめているのは彼女が珍しく心底不快だと思っているからだ。
妹姫も笑みこそ絶やさないものの、姉同様に快く思えるはずもない。

姉妹二人が華やかな見目とは裏腹な会話を繰り広げるその傍らには、話題の当事者でもある黒鋼が控えていた。
「…で。俺に咎め立てがあって呼びつけたんじゃねえのかよ」
不機嫌そうに腕を組んで柱に寄りかかるその姿はとても主の御前とは思えないが、帝も姫巫女も慣れたものでいちいちそれを正すようなことはしない。
「咎められることをした、という自覚があるのですか?」
くすりと天照が笑う。性急さが少しばかりの照れの裏返しだと分かるからだ。

「咎めるならば喧嘩両成敗で相手も同様。さて、この場合は…」
言葉を切って妹姫にちらりと視線を投げる。
知世も心得たように姉の聞きたいことに答えた。
黒鋼の眉間の皺が深くなる。天照と知世、すでに二人とも全容を知っているのだ。これはその上での確認作業に過ぎない。
その上で、黒鋼に促すのだ。どうするか、と。
「たしかに入城を許可している商人でしたわ。
たしか舶来物を商っていて、本人も大変な好事家ですわ。いつだったか、珍しい外つ国の鳥を献上してきたこともありましたもの」
「好事家ですか。それで情人を金子で譲り渡して欲しい、とは…随分無粋なことですね」
月光と深い海の色。
この日本国で唯一と言っても過言ではないほどに希少な存在が黒鋼の手の中にある。
どこでファイを見たのか。城に出入りを許された豪商はファイの身元を預かるのが黒鋼だと知り、使者を通じてそっと取引を持ちかけた。
下世話な噂話も入り混じったその取引話に、さして頑丈でもない黒鋼の堪忍袋の緒などとうの昔に切れていたのだけれど、激昂はそれだけではない。

見目にも麗しい、珍しい人間を何とか自分の手元に引き取りたい、と。

「あれの価値だとか珍しさなんざどうでもいいんだよ。飾っておきたいだけなら他をあたれ」
ファイの自我などないかのように、まるで物としての価値を論ずるように金を、数字を、自慢気に上げていった男が腹立たしい。

泣くし、笑うし、怒る。不本意ながら時にはこちらの手に負えないような策をこらして、手玉に取ったり、操り糸を手繰ってみせもする。
放っておけば寂しがる。他愛ないことで幸せそうな顔を見せる。
触れれば、温かい。
そんなことすら思い至らないような相手に、譲るようなものなど何一つとしてない。


「黒鋼」
知世が声をかける。注がれる視線は柔らかだ。
「あなたのお仕置きが決まりましてよ」
「何だ」
「帝のおわします城内で、非常事態でもないにも関わらず暴力沙汰に及んだことは大変許し難い行為です。
けれど、あなたの怒りの理由ももっともですからそのへんは少し手加減いたしましょう」
にこやかに薄紅色の唇から処罰が下される。


「ファイさんにはこの揉め事の経緯をご自分で説明なさいね」
忍者が心底嫌そうな顔をした。


 希色・続き


「オレも仕返しがしたいです」

天照と月読、二人の御前で晴れ晴れと言ってのけたのは金色の髪の客人。否、今となってはこの日本国の民ともなったファイだった。
すぐにくすりと帝の唇が綻ぶ。
「暴力沙汰は感心しませんわ」
制止するようでいながら、言葉とは裏腹に瞳に浮かぶのは悪戯めいた笑みの気配。
さて、と思案するふうであるのが、すでに胸の内が決まっているがゆえの遊び心であった。
だが、三人の思いもよらぬ人間が声をあげる。
護衛として傍に控えていた蘇摩が控えめではあるが「差し出がましいことですが…」と主の顔を微笑みながら見据えた。
「帝、ファイさんにはそうする権利があるのでは?」
無論、あまり乱暴なことは困りますけれど…と付け加えてしまうのは、昔から先達として黒鋼を見てきたがゆえに心配性が習いになっているのだろう。
「もちろんです。どこかの力押しの忍者さんとは違うんでー」
ファイがにこやかに答える。くすくすと忍び笑いを漏らす月読も止め立てする風はない。
となれば。
天照が鷹揚に頷いて見せたのが合図となった。


男が一人、白鷺城の廊下を足早に渡っていた。
身なりの良いその姿と所作に粗雑なものは見受けられないが、その胸中は穏やかではない。
常ならば白鷺城の妍麗なしつらえを目にするだけで、商人として特別に入場を許された身分は自尊心を満たし、気分も浮き立っていたであろうが今はそれどころではなかった。
内密であるが、との前置きで帝直々の呼びたてに参上したその身に浴びせられたのは、言葉こそ穏やかながらも叱責に他ならない。
遥か離れた上座と下座に隔たり、かたや平伏、かたや御簾越しとあってはその竜顔をちらとも見ることもあろうはずもないが、冷ややかな眼差しを想像するのは難しいことではなかった。
『当分頭を冷やすと良い』
最後にそう告げられたのは事実上登城を禁ぜられたに等しい。
やり場のない屈辱と怒りを持て余した男は最後の矜持と頭の片隅に残った保身で退座したのだ。


欲したのは世にも珍しい白鷺一羽。
金色の髪と蒼色の眼をもつその鳥はどうやら忍の囲い者らしいと聞いた。
男相手に何を酔狂なと笑ったが、いざそれを目にした時には合点がいった。
この世に金色に輝く髪があることも海を溶かし込んだ瞳があることも。話に聞いてはいたがそれが人間に備わっているのは男にとっては奇跡のように思えた。
だからこそ美のなんたるかすら分からぬ無粋な輩の手元に置いておくのが大層惜しまれたというだけのことであるのに。
粗暴な男の寝床から引き上げ、飾り立ててやれば大層感謝するだろう。もしかしたらその白皙の顔に微笑みを浮かべて自分を見るかもしれない。そう思ったのだ。

だが、その価値に見合うだけの金子を手にした使いはあろうことか忍に手を挙げられ、自分自身も帝の不興をかうこととなった。

『そなたが買い取ろうとしたのは、とある方から月読がお預かりした大切な客人。
よもや我が城の客人を、春を売るものたちと同じに考えたのではないでしょうね』
帝の冷ややかな声が耳の奥に蘇る。
まさか姫巫女の預かり者とは知らなかった。
そう悔やむ胸のうちと未練がましい執着とがない混ぜになったまま、廊下を歩む足取りは段々重くなっていく。
城へ足を踏み入れることを許された自身の「格」がこの期に及んでもまだ惜しい。

のろのろと歩む廊下からは庭を挟んで対面の別の渡り廊下が見渡せた。

きら、と光をはじくものが目の端に映る。
反射的に視線が追いかけたものは淡い黄金の髪。結わうこともせず背に流したそれが白い衣の上で風に揺られるがままに遊ぶ。
男性が着用するには珍しい、長くおとされた袖が動きのたびにひらひらと舞う。
欲していた者がまさに目と鼻の先にあることに男は目を奪われた。
その時、金色の佳人の顔がぱっと笑みに綻んだ。嬉しそうに瞳を向ける先につられて目をやれば、そこには大柄な漆黒の忍がいた。
戦装束のままの男の目は燃えるような真紅で、射るような瞳の激しさに男は身の竦む思いがするが、佳人はそんなことを気にする風もなく忍の傍に駆け寄る。

するりと逞しいその背に白い袖が回された。忍もごく自然に佳人の腰に手を回す。
何か言葉を交わし、最後に佳人がねだるように忍を促すのが見えた。
眉を寄せた忍に一層密着するように身を寄せた佳人が仰向いて、二人の唇が重ねられるのを男は呆然と見つめていた。
忍の太い腕が細い体を抱き込むように角度を変えた時。


男と視線の合った蒼い瞳が「してやったり」と言わんばかりに笑んでいたのを、男ははっきりと知らされた。





「まさか蘇摩さんが後押ししてくれるなんて思いませんでした」
ファイの言葉に、忍という戦闘を生業とする人間とは思えない穏やかな微笑が返される。
唇を開きかけて、少し言いよどむように蘇摩が眉を寄せた。幾ばくかの逡巡の末、言うことに決めたのだろう。蘇摩が今度ははっきりと唇を開いた。
「忍にとって…いえ、戦うものにとって武器の喪失や腕を欠くということは、それ自体死を意味します」
目を見開くファイに
「ファイさんを責めているわけではありません」
そう穏やかな声が降る。
「黒鋼は自らそれらを手放したのだと聞きました。貴方を…命を懸けるべき相手だと決めたのならば姫様も私もそれを尊重したいと思います」
だからこそ、と続いた言葉の中に静かな憤りが潜むのが分かった。
「黒鋼は日本国一の忍です。その忍が命を懸けたものを踏みにじるような真似を、同じ忍としてそのままに捨て置くわけにはいきません」
これは自分たちの誇りにかけてのことだとそうファイに告げる蘇摩の顔は姉のような慈愛に満ちていた。
また、ファイが気に病むと思ったのか、彼女はいつもの笑顔で言う。
「それに黒鋼は帝や月読様の身をお守りする立場。帝の忍軍の筆頭なのです。
黒鋼の腕と刀の価値を軽んずるは帝や姫様のお命を軽んずることに繋がりはしませんか?」
そう言われてしまえばもうファイに返す言葉はない。改まって礼を述べるのも却って気遣いを無碍にするようだったので、ファイは笑みの中にそれを留めた。
「蘇摩さんは本当に天照様がお好きなんですねぇ」
「ファイさんもでしょう?」
珍しい蘇摩の茶化すような声に何一つ気負うことなく、はい、と答えた。



見られていることを承知で(というよりも見せ付ける目的で)重ねた唇が離れた。
「で」
「?」
「こんなマネして一体何になるってんだ」
「そりゃあ、思い知ってもらわないと」
白い頬にかかる金糸を梳いてやりながら、少し伸びたなと黒鋼は思った。
ファイが日本国で過ごした時間の表れに気づくのは悪い気はしない。
髪を梳く手に猫のように頬を擦りつけてファイが目を細めた。

「オレが君のモノだってことを」

その言葉に赤い瞳が楽しげに眇められる。獰猛な獣の笑みにも似ていて、ファイの背中を陶然とした欲が這い上がる。
「上等だ」

噛み付くような口付けを受け入れた時には、ファイは目の前の男以外のことなど意識に残らず、もうどうでもよくなっていた。


 希色おまけ


「そういえばオレのお値段っていくらだったんですかー?」

何の気は無しに聞いたファイに知世姫が袖を翻して示した。

「城下のあちらの通りからこちらまで買い占められるくらいでしたわね」
「結構広くないですか?」
「一家四人なら慎ましく暮らせば老後まで安泰な額でしたわ」

……。

「…黒様って馬鹿ですよねー」
「あら、愛されてますわねぇ」


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