in日本国
 君の名


「守護を」

そう言って、すっ、とのばされた姫君の小さな手。桜貝のような淡い色の爪が印象的だった。
「今は分からなくとも良いのです」
これは護り。
「あなたにはきっと何よりも」
ただ稚気めいた指遊びのように掌を辿る巫女姫の白い指には、魔力の欠片すら感じられない。
ファイにとっては馴染みのない象形は、桜の舞散る世界で黒鋼が綴っていた文字を思いおこさせる。



力有るもの、猛きもの。絶対なる力。

そして。
その長、威力の象徴たるもの。



『 』


一筋、一筋、切なる願いを込めて、姫君が掌に残した軌跡はたった二文字分。

ファイはその意味など知らない。
知世も知らせるつもりもなかった。
いずれは、解る時がくるのならば。その時、それを告げるべきである人間は他にいる。たとえ、未来永劫、知ることがなくとも、大事なのは刻まれたものとその事実。
その名を預ける意味も託された意味も、告げる間でもなく二人は分かち合っていた。



(くろがね)


(くろがね――。
“これ”は“君”だ――)

はらはらとこぼれる涙の意味は分からぬままに、ただ熱を帯びた掌を握り締めた。
苛烈で優しい赤を思う。

愛しきもの。

「そのいのちを」
慈しみ、生きよと。

「そのめいを」
違うことなく護れ、と。

遠くない過去が自分に強いた未来への指針とは裏腹の温かさは、彼と同じ温度をしていた。


 届かない恋文


「くろがね、これ読んで」
「なんで俺が」

「姫さま、わからないの読んでもらえって」
「…寄越せ。
…っておい、こっちは懸想文じゃねえか」

「けそーぶみ?」
「恋文のことだ。
…お前がすきなんだと」

「ふーん」
「どうする。返事してやるのか」

「いらなぁい」
「お前宛だぞ」


「オレ好きなのくろがねだからいらない」
「…」




こうして幾枚かの紙片に紛れた恋文は、本人に届くことはないのだった。


 酔っ払い


「黒様はぁ〜横暴なんです」

「いーっつも人に偉そうに指図するしすぐに怒鳴るしー」

「黒たんはずるいんです〜。
ちっとも人の言うことなんか聞かないし、オレはすごく心配なのに怪我しても知らん顔だし…」

「反則ですよねー、あんなに横柄なのに」

「時々すごく優しいし、一回懐に入れちゃったら、ぜぇーったい見捨てないし…」

「なんでだろー?オレばっかり好きなんですよー」

不公平だなあ。


散々くだをまいて最後にそう言い放ったきり、突っ伏して動かなくなったファイに国主姉妹は溜め息をついた。


呑ませすぎた。





「知世も天照も二日酔いかよ、珍しい」
「…他人ののろけ話を酒の肴にするのは、少々重かったようですわ。ねえ」
「ええ、本当に」
「ああ?」


 選択の自由


「黒鋼はずっと貴女の元に帰りたがっていたから、貴女のことが好きなんだと思ってました」

「まあ、ファイさんったら。







私にも選ぶ権利がありますわ」
「…すみません」


後日、魔術師曰く。
「すっごく怖かったよぅ…」
「ろくなこと言いやがらねえな、お前」


 あまい


日本国随一の忍の渋面を前にして平気な人物がいるとするのならば、それは途方もなく豪胆な人間であろうというのが専らの評である。

その途方もなく豪胆な人物その一にして彼の主でもある姫巫女は、常と変わらない笑みで黒鋼とその連れの入室を促した。傍らには豪胆な人物その二、姫巫女の実姉でありこの日本国の至尊の君天照が座している。
それぞれに政治と祭祀を司る統治者としての責任感や連帯感もあろうが、基本的にこの姉妹の仲は良い。その仲の良さが傍目には判りづらいことが多いので、周囲はそれに振り回されることも多々あるのだが。それもまた彼女たちの間のみで理解することの出来る気の許し方なのだということだろう。

ただし、振り回される側にも反論はあるのだと黒鋼は思った。
黒鋼の後ろからその三が顔を出す。金色の髪に白い肌。日本国に人間にはいない、存在する色彩の全てが淡い彼の姿がこの城に馴染んでからもうしばらくになる。
「帝、知世姫。お呼びにつき御前に参上いたしました」
かしこまって礼をとる仕種は天性の優雅さを感じさせ、けしてその出自が怪しいものでないことを動きの端々から窺わせる。
今日は一体何匹の猫をかぶるつもりやら、と黒鋼の眉間の皺が知らず深くなった。

黒鋼の心中を知ってか知らずか、知っていてあっさりと無視しただけなのか、知世は鷹揚に笑った。
「お忙しいところお呼び立てしたのは私ですわ。どうか楽になさってください」
「ではお言葉に甘えて失礼いたします」
出来れば口調も堅苦しいものではなく、と促す姫巫女にファイも微笑み返して膝をつく。

「今日は天照様と知世姫にお土産を持ってきたんですよー」
それを聞いた二人が口々にそれは楽しみだと言うのはあながちお世辞ばかりではないらしい。
手にしていた薄紅色の風呂敷から取り出され高杯に形良く盛られていくのは、朝からファイが台所で作っていた菓子だと知れる。
甘いものを嫌いだという女性は少ないのだろう、旅を共にしていたあの幼い姫もファイの作る菓子を心底幸せそうな顔で頬張っていたのを思い出す。

「今日はどんなものを?」
戦場に武人として出ることをも厭わない帝もそれは同じようで嬉々として興味深げにファイの手元を覗き込んでいる。
「こっちが米粉を蜂蜜で練って油で揚げたもので、これが小麦粉を練った中に桃の砂糖漬けを詰めて焼いたものです」
本来、蜂蜜や精製された上質な砂糖といった高価な上に滋養があるとされる食材は本来簡単に手に入るものではない。知世や天照であるから当然のように各地から献上されたそれを口にすることが出来るのだが、普通は手に入れることすら困難なのだ。
黒鋼とファイの立場からでも容易く手に入れることが適うものではないその食材を、目の前の姫君二人はファイに惜しみなく下賜する。花見か何かの折にファイが手土産として持参した菓子が大層お気に召したらしい。

そして、黒鋼が感じる嫌な予感。予想する、というよりも実体験に基づく予測として問題はここからだ。
「黒様」
まぶした粉砂糖で指先を汚したファイがその手に抓んだ菓子を黒鋼の顔の前に持ってくる。
「はい、毒見」
にっこりと一見邪気のないように差し出された揚げ菓子は記憶によれば蜂蜜がふんだんに使われていたはずだ。
眉間の皺が増えたのが自分でもはっきりと分かった。
「…お前がすりゃいいだろうが」
「何言ってるのぉ?もしオレが解毒剤でも先に使ってたら意味ないでしょう。毒に対策を講じてあるかもしれない作った本人に毒見させるなんて、ある意味大馬鹿者のすることだよ」
口が減らない、とはこういうことを言う。言うと十倍になって返ってくるので黒鋼が賢明にも口にすることはなかったが。
「黒鋼」
天照が殊更に大仰に名を呼ばわる。もっともその瞳が笑っているのを隠そうともしていない。
「主を身辺を守るのが忍としての務めでしょう」

『まずは貴方がお食べなさい』
実に上機嫌に命ずる帝に、それを面白そうに見守る妹姫。口を開けろとばかりに差し出した手を下ろさない魔術師。

内心で盛大な舌打ちをしながらも拒否の出来ない状態に黒鋼がファイの手元に口を寄せた。
口の中に蜂蜜の甘味がほろりと広がる。

「甘え…」

苦々しげにそう呟く黒鋼を他所に姫君たちは「大丈夫のようですわね」と言ってさっさと茶の準備をしている。
「お手伝いしまーす」
作った本人までもが黒鋼が一口食べたことを見届けるとあっさりと引き下がる。三人とも端から毒見をさせるつもりなど欠片もないのだ。
少しばかり苛立たしいのだががなりたてる気にもならない。こうでもしないとファイの作ったものを一番に口にはしないであろう事を見透かされているのだろうなと思った。


 小さな愛情


in日本国
相手に愛されてると感じたこと。



「焼魚の身をほぐしてくれる」
「…」


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