のばら
 好機?


黒鋼がいつものように部活を終え帰宅すると、両親が来週旅行に行ってくる、と告げた。
夏休み中とは言え、部活休みには程遠いが、一人で留守番の出来ないほど子どもでもない。
いつまでも恋人気分のような父母はすでに思春期を終えようかという年の息子がいるようには見えないくらいに仲が良い。
それを特に引き留める理由もなく、久々に夫婦水入らずもいいだろうと同意した。

が、食べ盛りとしては食いっぱぐれて飢え死には嫌なので、食費は無心する。
運動部男子の例に漏れず、黒鋼はよく食べた。食べても食べても消費されるカロリーの補給には追いつかず母親の作る三食と部活帰りの買い食いの他に、最近付き合い出したファイが作ってくる弁当までも綺麗に片付けてしまう。
ファイとそんな関係になるまで男女の交際など頭に無かったが、思いも寄らぬこのおまけはありがたかった。
思い切りの良い食べっぷりにファイが嬉しそうにするのがひそかに気に入っていたりもする。
数日分の食費として適当な額を渡されて、財布にしまう息子に父親が呆れたように言った。


「息子よ、まさかその歳で飯作りに来てくれる彼女もいないのか」
「親父…」
何を言っているのかと呆れる息子に父親が信じられんとばかりに畳みかける。
「せっかく親がいないんだぞ。こっそり彼女を呼ぶ絶好の機会だろうが」
しかもどうやら真剣に言っているらしい。

普通の親はこんな時、異性交遊に関しては不埒な真似はするなと釘を刺すもんじゃないのか、と息子は頭を抱えたくなった。
「俺が息子くらいの年にはそりゃあもててたぞ」
父親の自慢話に、どうせそのくらいの年のころから一人しか目に入ってなかったくせに、と幼い頃から両親の無意識の惚気が当然の環境としてすり込まれた息子は心の中で突っ込んだ。



「あら、あなたったら」
こんな場合は母親がやんわりと父をたしなめてくれるのを待つ他ない。


「そんなこと先に親が言ってしまったら彼女をお家に呼びづらいでしょう?
知らないフリをしなきゃ」


おっとりと、希望した方向性でない母の言葉にとどめを刺された。


いつまでも恋人気分の両親は、息子の恋愛にも実におおらかだった。




……。
ファイを呼ぼうかと思っていた自分の考えを見透かされているような気がしたのは果たして気のせいなのか。


 のばらお泊まり編・朝


両親が旅行に出かけて数日家に一人きりだ。

飯を作りに来て欲しい、と黒鋼本人からの珍しい申し出に理由を聞くと、言いづらそうにそう告げられた。
普段弁当や軽食を差し入れるのを拒まれたことは一度もないが、全てファイがしたいからやっていたことだ。こんな風に黒鋼が頼んでくるのは珍しい。


「言っとくが変な下心があるわけじゃねーぞ!」
大慌てで否定する黒鋼の顔は真っ赤になっているが、ファイとてそれを指摘出来るほど落ち着いているわけではない。
むしろ自分も想像をたくましくさせてしまって落ち着かない。


だが、無心にファイの料理を口にする黒鋼を見ている時の幸せな気持ちや、素肌同士が触れ合う甘い時間を思い出して嬉しくないはずがない。


「…下心あってもいいよ」嬉しさと期待がほんの少し恥ずかしさを上回る。
「黒鋼なら…下心あるほうが嬉しい。
…泊まってもいい?」

バツの悪そうな顔で「おう」と答えた黒鋼の耳も赤くなっていた。


 のばらお泊まり編・昼


黒鋼が部活に出ている間に、ファイは家で外泊準備をしていた。
と言っても勝手知ったる幼なじみの家。持って行くのはごくわずかな着替えと洗面用具。

だが、ファイの手がはたと止まる。
今までは無意識だったが、綺麗に小さく畳んだパジャマと下着を手にしたところで改めて、自分が「そのため」の準備をしていることに気づく。

「あ…」
そうして、手にしたそれが「次」を意識して買ってしまった新品の下着であることも恥ずかしさに拍車をかけた。
女の子同士で可愛らしいさを楽しむのではない、この体に触れる誰かに見せるために選んだもの。

黒鋼の視線にさらされる時のことを考えて顔が熱くなっていく。


誰かに見せるために下着を選んだのも、恥ずかしさとは裏腹な甘さが胸を焼いていくのも。なにもかもが初めてで嬉しくて困った。


 のばらお泊り編・夕方


部活で汗だらけになった体をさすがにそのままにしておくのは落ち着かず、簡単にシャワーだけ浴びる。
ガシガシとタオルで頭を拭きながら、何か飲み物をと足を向けた台所からは、包丁のリズミカルな音と食欲をそそる香りがした。

冷蔵庫に残っていた食材を確認してからファイが買い足した材料で、一体何が出来るのか黒鋼には全く予想が出来ない。
ただ、匂いに強制的に空腹を自覚させられてのそりと台所に入る。

「あれー?黒たん、もうちょっとゆっくり入ってきたら良かったのに」
もうちょっとかかるよー、言いながら振り返ったファイが慌てて顔を反らした。

「何作ってんだ」
不審に思いながらも優先されるのは食欲。肩越しにひょいと覗き込んだところでファイの体がビクリとはねた。
「鷄のしそ焼き…」
らしくもない小さな声に何があったのかとファイの手元ではなく顔を見れば、耳が真っ赤に染まっていた。
自分の家だからすっかり失念していたが、黒鋼の今の格好はスエットの下のみ、上半身は肩にかけたタオルが肌を覆っている程度だ。
「…着替えてくる」

既に互いの裸を見たことがあるのだが、日常の中での不意打ちはそれとは別らしい。
コクコクと無言で何度も頭を振るファイにつられて、照れが伝染してしまったらしい黒鋼の口調も少しばかりぶっきらぼうになった。

気まずいような空気を夕食の湯気がかき消してくれるまで、あと十数分。


 のばらお泊り編・夕食


大根葉とじゃこの混ぜごはん、とりのしそ焼き、煮物、しいたけと焼きねぎのゴマ和え、茗荷ときゅうりの酢の物。
手際よく盛り付けて、最後に温まった吸い物に刻んだ三つ葉を散らすと本日の夕食は整った。
あまり手間のかからない料理でも彩りに気を配って、品数を揃えるとそれなりに見られるものになる。
弁当なり差し入れなり、何度も黒鋼のために料理したことのあるファイだが、食事を作りに来て欲しいと頼まれたことが、もう一歩彼との距離を縮めた証のようで自然と動きも弾むようなものになってしまう。
朝食の下ごしらえを冷蔵庫に片付けながら、本来の家の住人を呼ばわった。

「黒たーん、ご飯出来たよぉ」


ファイは先ほどの動揺が声に出ていないのにほっとした。
――黒鋼の声が聞こえて、振り返って見ればタオルを首に引っ掛けただけで、上半身裸の黒鋼が間近にいて、驚くよりも先に恥ずかしさに襲われた。
肩越しに覗き込む姿勢は、息遣いもはっきり分かる距離で、淡く体にまとわりついた水の匂いに心臓の音が早くなる。


彼にはまったくそんなつもりはなかったろうに、あからさまな連想にうろたえた自分の思考が情けない。
(ここは黒鋼の家だもんね。きっとあれがいつも家にいる時の黒鋼なんだ)
ファイが自分自身にそう言い聞かせている間に、黒鋼が食卓へとやってくる。
今度はスエットだけではなく、黒いシャツを着ていた。
傍目には黒鋼にも先ほどの動揺は見られない。腹減った、と言いながらも全てファイに任せず、自分でも湯呑みや箸を用意する律儀さは生来の性分らしい。

二人向かい合って座り、行儀良く手をあわせる。
「いただきまーす」
(オレの見たことない黒鋼の『いつも』って後どのくらいあるんだろう?)
いつものようにファイの作った食事を口に運ぶ黒鋼を見ながら、そんなことを思う。
食事だけでなく、もっと生活に日常に踏み込んでしまいたい。まだ形にならない願望は可愛らしく胸の奥で育っていた。


 のばらお泊まり編・夕食後


風呂に入る前に一応客間に布団を敷くかと聞く。
いくら付き合っているという事実関係があるとはいえ、当たり前と傲慢さの線引きが難しく曖昧な部分なだけに、黒鋼は相手の承諾も無しに振る舞うのは気が引ける。


そんな気構えを知ってか知らずか「黒鋼の部屋でいいよ」とファイは答えた。


据え膳。


そんな日本語が脳裏をちらつく。

手持ちぶさたにつけたテレビから流れる音声も映像も、ちっとも胸のざわつきをごまかしてはくれなかった。


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