チョコレイト五題 |
01. 「チョコなんかあげません」
「代わりにオレを食べて「今すぐ出てけ」 冗談なのに〜、と泣き真似をする化学教師だが、この手の問題に関する限り、体育教師は欠片も信用していない。 日常におけるプライバシー侵害の常習犯に、おいそれと情けをかける気は一切ないのだ。 特に相手が自分に対して、冗談にせよ本気にせよ「一般的な好意」以上の好意を寄せている、と明言しているとあっては。 とりあえず、化学教師は告白よりも先に地を這う勢いの信頼を回復させるのが先だったが、それを指摘してくれる人間はこの場にはいなかった。 ついでに、過剰すぎるスキンシップに徐々に慣らされてしまった自覚のない体育教師は、同僚が用も無いのに自分の部屋に居座っていることに動じない。 それにツッコミをいれる人間もまた、皆無だった。 02. 義理
職員室の扉を開けた途端、黒鋼は回れ右をしたくなった。 悪意なく人をもてあそぶ上司が大変ご機嫌だったからでもなく、害意なく人を振り回す同僚が微笑んでいたからでもない。 甘ったるかったのだ。匂いが。 そういえば受け持ちの生徒たちが妙に浮き足立っていたな、と思い出す。 年が改まったと思ったら、早くもピンクや赤いハートのパッケージが飛び交う季節となったらしい。 こうなったらさっさと用を済ませて体育教官室に帰ろうと理事長にいささか乱雑にプリントを手渡した。 侑子はそんな黒鋼にまったく気分を害した様子もなく、お疲れ様ーvと上機嫌に声を返した。 手に持ったトリュフと理事長が滅多に開けない茶葉(正確には面倒見のよい某生徒が「もったいない」と言って淹れてくれない茶葉)使用の紅茶がご満悦の源らしい。 職務時間であるはずだが、彼女の机ではお茶会が始まっている。食べ物を実に幸せそうに食べる姿は彼女の美点の一つだろうと思う。が。手にした以外にも、机上には甘そうな菓子類が所狭しとひしめいていて、甘ったるい匂いはここか、とげんなりしながら踵を返した。 扉一枚、抜け出ただけで息をするのが随分楽になる気がする。 「黒鋼先生」 柔らかな声音は聞きなれたもの。否、聞きなれた声と同じ、もう一人の該当者の声だった。 呼ばれた方に顔を向ければ見知った顔が、お疲れ様です、と微笑んでいた。 ふわり、とほのかに立ちのぼるバニラの香りは調理実習の時についたものらしい。 彼のもともと暮らしていた国とは大分意味合いの異なる風習であろうが、一番身近にいる人間が真っ先に飛びつきそうなイベントだけに、あっさりと飲み込んだようだ。 手に持っている小さな包みもおそらくは双子の兄にねだられて作ったものだろう。 「すごいですよ、眉間の皺」 「…苦手なんだよ」 職員室の扉を軽く睨むと軽やかな笑い声があがった。 この弟をみると時折、僅かばかりではあるがいたたまれない気持ちがよぎる。姿だけで言うならばまったく同じ人間と自分が関係を持っているからなのだが、心身ともに近づいた相手の肉親と直接付き合いがある、というのはいささか気まずい思いが拭えない。 はあ、と深いため息をついたのをよほど甘い匂いに嫌気がさしたと思ったのか、ユゥイが眉をちょっと下げる。 困ったように笑う顔は確かに双子の片割れと同じで、いったん二人が私服になれば区別がつかない、と言う人間はいまだに多かった。 「侑子先生の机の上でしょう?すみません、あれ作ったのオレなんです」 最初は生徒に調理実習で教えるだけだった。それを聞きつけた兄にねだられ、彼の食べる分を考えているうちにどこで話が大きくなったものか、理事長からリクエストが届いていた。 ファイから大体の説明は聞いていたし、イベントならば盛り上がった方が楽しいだろうと、最終的に高等部の職員に配ることにしたらしい。 「でも黒鋼先生が甘いもの嫌いだってファイから聞いたのが昨日で…」 「いや、気にしなくていい」 「なので市販品で勘弁してくださいね」 あまり甘くないですよ、と言われ渡されたチョコを反射的に受け取る。甘いもの嫌い、酒好き、と知れ渡っている黒鋼に合わせて焼酎チョコだった。 パッケージを見て軽く目を見張ったのは、それが黒鋼でもけして安価ではないと分かるメーカーだったからなのだが。 「ファイがお世話になってますから」 ユゥイは悪戯っぽく、ついでにこれからも面倒かけちゃうと思うんですけど、とつけくわえる。 彼なりにきっと、片割れへの心配と、一番近しいからこそ黒鋼との間に他の人間とは違う距離を感じとったのではないかと思った。(もしくは双子の弟には、隠し事どころか聞かれてもいないことまでべらべらと報告しそうな兄の口からすでにばれている可能性が無きにしも非ずだ) 少々面映さを感じながらも、こちらの嗜好をかんがみて選んだものであり、確かに黒鋼の好みだった。有難くいただくことにする。 「気を使わせて悪いな」 「お返し期待してます」 柔らかに冗談をかえす微笑みは双子の兄と同じはずなのだが、黒鋼はまったく違う顔に見えてしょうがない。 おう、と手をあげてそれに答えた。 「ひどい!ユゥイ!よりにもよって黒たんせんせーにチョコをあげるなんて!!」 ドアを開けた途端にショックを受けて泣真似をする双子の兄が抱きついてくる。 「だってファイが言ってたでしょう?お世話になってる人にありがとう、っていう意味で贈るチョコもあるって」 義理チョコっていうんでしょ? 「某有名百貨店が一日限り、お一人様一箱限りで百個限定販売、二時間足らずで完売した幻の酒使用焼酎チョコを義理であげたの!!?ひーどーいー。オレに断りもなくー」 「…食べたかったんだね、ファイ」 いつどこでそんな詳しい情報を仕入れてきたんだろう、と疑問に思いながら、脳裏に酒好きを公言して憚らない女性がよぎる。 ひどーい、とこちらを詰る口調の兄の瞳はキラキラして、これは焼きもちなどではなく、純粋に「幻の酒」とやらが味わってみたかっただけだろうと容易に想像できた。 ついでに相手も自分の次の言葉を予想しているのだろう。 仕方ないな、と苦笑して、一緒に食べておいでよ、と耳元で囁いてやる。 途端にぱあっと輝いた顔は本心からであって、それがチョコのせいだけではないのも良く分かっていた。 どちらかというと、黒鋼にあげた義理チョコは体の良い理由で、自分の片割れに喜んで欲しかったのが本音かもしれない。 03. だって、(お菓子なんて作れないのに)
店頭に山積みされた商品が恨めしい。 ファイは初心者用のキットが多数並べられた一点を睨みつけるように凝視する。 可愛らしくラッピングされたチョコレートが飛び交うこの時期。 去年までのファイならば友達同士の交換や義理とは言え、誰にどんなチョコレートを贈ろうかと思案してそれ自体を楽しんでもいたのだが…。 (作れるわけないでしょー) 料理は苦手ではない。 菓子作りも同様で、むしろ人並み以上にこなす自信はあるし、周囲の評判も悪くはない。何よりも自分が作るのが好きなので、毎年お手製のチョコを友人たちにお裾分けしていた。 が、ようやく口説き落とした恋人は尋常でない甘いもの嫌いだった。 キッパリと「迷惑だ」などは言われたことはない。 しかし、不得手とするものを知っていてわざわざ押し付ける気にはなれない。 一年の中で何回か、記念になったり、特別な日になりそうな日だからなおさらに。 愛や恋を連想させる可愛らしいパッケージを諦めて、結局コンビニでカカオ80%を謳い文句にするチョコを買った。 差し入れだといって渡してしまえば、彼ははたしてバレンタインという年中行事に気がつくだろうか。 (バレンタインなんて早く過ぎちゃえー) 女の子が楽しみにしている日をこんなに恨めしく思うときがくるなんて、ちっとも予想していなかった。 04. 不器用な君(「02. 義理」の続き)
すっかり遅くなってしまった帰路をファイは一人で歩いていた。 いつもなら職員宿舎お隣の特権と称して黒鋼の車に乗せてもらうのだが、あいにく今日は仕事がずれ込んで一人、帰るのが遅れてしまった。 つき合わせるのも申し訳ないし、どちらか都合が合わないなどということも今までにだってあったから、先に帰っていてもらったが少し残念な気がしてくるのはしょうがない。 (だって昨日は…だったし) 寂しいと思う端から昨夜の行為を鮮明に思い出し、一人赤面する。愛された記憶がまだ色濃く残るだけに余計に寂しいのかもしれない。 夜の気配がじわりとそこかしこに潜む冬は、一人でいるといつの間にか深く物思いに耽ることが多くなっていけない。 その隙間を縫って冷気がふ、と肌をさす。 寒い、と声に出すのも億劫でいつしか小走りに自分の部屋を目指していた。 がしゃん、と静かな空気の中響き渡る音にファイは顔をあげた。 職員宿舎の入り口付近に設置されている自販機に誰かがいる。背中を向けてはいるがファイには誰だかわかる。 背中にじゃれつこうと思ったところで、前触れなくこちらを向かれた。 一切驚く気配もみせず、遅かったな、と声をかけられる。 「ただいまー、黒むー」 「手、赤くなってんぞ」 「そう?」 かじかんで少し動かしづらい自分の手をファイが見つめる。たしかに指先はちょっと目にも分かるほど赤くなっていて寒そうだ。 「やる、間違えた」 黒鋼が無造作に缶を一本放り投げてきたので、慌てて受け取る。運動神経は悪い方ではないが、もう少し余裕のある渡し方をして欲しい。そう思ったファイだが手の中に落ちてきた温もりが今は何より嬉しい。 (気にして、待っててくれたんだ) 黒鋼が買っているコーヒーと自分がもらったココアは、見本の中でも間違えようがないほど異なる位置に配されている。 「黒たーん、早く部屋行こう」 ココア一本で幸せになる自分は安上がりかもしれない。 05. ほんとはチョコよりキスが良い
レポートの締め切りに追われ、傍らの資料をひっくり返してはパソコン画面と格闘すること数日。 不眠のせいで吐き気と寒気までしてきたが、そもそもこの課題提出自体、高熱でできなかった課題の代替案なのだから。 途中で何度か同居人が飲み物や軽食を運んできたり、休養を促していた気がする。喉が渇いて手を伸ばしたカップがほの温かかったり、いつの間にか食器がさげられたりしていたから、多分いろいろ面倒を見てもらっているのだろうけれど目の端がちかちかと傷むのを我慢しながら、ディスプレイの文字を追っていた。 同居人に車を出してもらってどうにか構内まで乗り込んだことは覚えている。 手馴れた運転で心地よく体を揺らされて、あとは朧げに、赤信号や見慣れない壁を視界に納めていた。見慣れたカーペットが目に飛び込んだのが最後だったから、多分家に帰り着くまでどうにか意識はあったのだろうが、それがおそらくは最後だった。 人の足音と家具や食器の触れる音。 睡眠と意識を乖離させていくその音は人の生活の音で、眠りを欲する一方幸せでいつまでも聞いていたい気持ちになる。 むー、と唸りながら体を起こすと毛布がずるりと床に落ちた。体中が嫌な音を立てそうになるのは、無茶な寝方をしたせいではなく今までの不摂生な生活のツケだろう。いつ意識をなくしたのかすら覚えていない体はちゃんとソファに収まっていて、体がひえないようにと毛布もかけてあった。 彼らしい、と口元が緩む。 「起きたのか」 ごそごそと動き回る音を拾った同居人がこちらへとやってくる。 寒い、と呟けば落とした毛布を拾い上げてもう一度かけられた。 「もう少し寝ておけ」 頬を軽く撫ぜていった手が気持ちよくて、自分から頭を擦り付ける。凄く甘えたい気分で、もう少し触っていて欲しいと思う。 「顔が蒼いぞ、血糖値下がってんじゃねーのか」 睡眠をとった割りに血色のよくならない頬を、希望通りに大きな手のひらで包まれてほうっと息が漏れる。 オレは年中栄養不足なのですー、と嘯いて背中に両の腕を回すと、まずは何か食え、と窘められた。 手近な机の上に置いてあったアーモンドチョコの包みから一粒、口元に押し当てられる。 かり、と噛り付けば甘味がすぐに口に広がり、心なしか体に染み渡る気がした。 けれど。 「あのねー、黒わんー」 「何だ?別の物のがいいか?」 「オレこっちのほうがいいなぁ」 薄い、男らしい唇を人差し指でそっと辿る。 呆れたようにため息をつくその唇が、優しく落ちてくるのをちゃんと知っている。 チョコレイト五題capriccio
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