子安貝
百目鬼×四月一日
単純計算で後三ヶ月といったところだろうか。四月一日は変わらず台所に立ち、朝昼晩と間の食事を作り続けている。勿論、掃除洗濯も怠ってはいないが、重たい腹を抱えてよっこらせと辿り着いた時には、百目鬼が先回りしている。これが七日も続けば、任せてしまえという気になるのは無理もなかった。
無表情なくせにやけに気が利くし、料理を除く家事も手伝い、病院の定期検診にも必ず付き添う。檀家の奥様方から理想の旦那だと言われるのは当然の運びだろうか。だが、四月一日は、百目鬼が夫ゆえの義務を果たしているだけなのだと見えてしまう。八割方言葉が足りないのが原因だろうが、改まる気配は少しもなかった。それどころか、学生時代よりもやけに冷たいような気がしてならない。
「出来ちゃった結婚だしな……」
寺の一人息子の嫁、というのはそれなりに気を遣う。気軽に友人を呼べるような家ではないし、舅や姑に夫の口数が少なくて寂しいんですがと相談するわけにもいかない。だから、こうしてお腹の子どもに語りかける。気を紛らわせるための独り言が、いつしか日課のようになっていた。それは、安定期に入ってからアヤカシが寄ってくるようになり、殊更酷い。
「今日も仕事ー明日も仕事ー意外に寺って忙しいんだよな……」
細っこい身体で、肉付きの悪い四月一日は、産婦人科で難産確実の嫌な太鼓判を押されている。最悪の場合帝王切開も覚悟しておくようにとも言われていた。思わず泣いてしまったのに、百目鬼は傍に突っ立っただけで支えてもくれなかった。
「でも、今日の仕事は午前中だけだったはずだよな……変なの……」
ぼんやりと呟く四月一日の頭上の時計は、すでに二十一時を過ぎている。作った晩御飯も、もうとっくに冷えていた。
「……お腹、空いたなー……」
昼飯は食べるようにと言われていたから独りで寂しくお腹に入れたけれども、晩御飯は何も言われていない。お腹は空いたし、赤ちゃんのためにも食べたほうが良いとわかっているのに、せっかく作った料理は綺麗なまま冷えてしまった。
「どーめき……の、ばか……なんで……独りにするんだよ……家族、なのに……」
付き合い始めたときの常套句は「お前に家族を作ってやる」、プロポーズは「お前の家族になってやる」、結婚してからは何も言われない。
「俺が、何かいけなかったのかな……」
ぽたりと大きなお腹に涙が落ちる。視界が滲んだのは涙のせい、だけではないようで、くらりと眩暈を感じた四月一日はゆっくりと横に傾いていく。完全に椅子から転げ落ちようとした時、男のがっしりとした腕が細い身体を抱き抱えた。
「四月一日!」
「ん……」
「しっかりしろ!どうして晩飯食ってないんだ!」
涙に濡れた顔が上向いて、百目鬼の心配そうな鬼気迫る顔をおかしそうに見つめた。
「だって……お前、帰ってこねーん、だもん……」
新たな涙がまた零れ、百目鬼はすまないと一言だけ発して妻の身体を優しく抱きしめた。
「これを、捕りにいっていた」
宥めるように四月一日の背を撫で、百目鬼は彼女の手の中に幾つかの小物を握らせた。
「これ……」
「なかなかいいのが見つからなくて遅くなった」
「子安貝……」
安産祈願の巻貝は、言葉の足りない百目鬼の、溢れた愛情そのものに違いない。四月一日がどれだけ自然分娩を望んでいるか、百目鬼はちゃんとわかっていて、だからこその気持ちの表れなのだろう。
「祖父さんに頼んで、一つはペンダントにしてもらった。清めてもらったからつけてろ」
「……ど、めき……」
新たな涙がまた零れ、百目鬼は困った顔で妻を見やる。
「俺が、傍にいるといつもお前を泣かせてしまうな……」
「だ、って……」
「抱きたくなるから、泣くな」
四月一日に向き合えば向き合うほど、妊婦に向けてはならぬ劣情が込み上げてしまう。我慢すればするほどに口数は減り、傍にいると危険だと仕事に向かう。それでも、妻の無事を、子どもの無事を願って止まないから、「俺にはこんなことしかできない」とのたまう。
「あほめきの……ばか…………ありが、と……」
「おう」
「もう……黙って、どこかに、行くなよ……」
「ああ」
ぎゅっと貝を握り締め、百目鬼をじっと見つめ、ほんの少しだけ微笑む。
「お前が、居てくれたら、アヤカシも寄ってこないのに」
「……お前に手を出さない自信が無い」
「こんな、お腹おっきいのにか?」
「ああ。お前は、綺麗だ、四月一日」
やはり涙は止まらず溢れる。でも、四月一日はとても綺麗な笑顔で夫を見上げていた。この手にある巻貝は、あのかぐや姫が欲した燕の子安貝に違いない。こんなに幸せなのだ、そうに違いないと四月一日は降りてきた百目鬼の唇に唇で応えた。
奇跡的に安産だったのは、お守りではなくお父さんがずっと手を握ってくれていたからだ。物心ついた長女に話す母の腹の中には、次女が静かに眠っている。