聞かせたくない鼓動
百目鬼×四月一日/四月一日女体化
―――――最初に出会ったときから、いけ好かない気障野郎だったと覚えている。なにせ、ちょっと肩が触れた四月一日に律儀に謝ってきたのだ。その直後にすっ転げかけたのを片腕で支え、顔を見つめたおした後に、やはり心配だと言って保健室まで担いで行った。軽々と担がれてしまったこともさながら、甲斐甲斐しく世話してベッドで添い寝まで敢行したのだ。見た目は貧弱でも一応は男子の制服を着ていたのに、まさか男に添い寝されて嬉しいなどと思えるはずもない。意味不明な口論が勃発し、四月一日が疲れた辺りでまたベッドに抱き込まれて横たえられた。そこで諦めてしまったのがいけなかったのだろうか、その日からずっと四月一日の隣には授業と部活以外では百目鬼の姿があり、作った料理は黙々と食べられ、何故だか勝手に泊まっていった百目鬼のシャツをアイロンがけしたり、妙な物を押し付けられたりしている。それよりなにより、百目鬼と共にいると虫に刺されたような痕が手首や首筋についていることがあるのだ。侑子曰く、百目鬼といるのは四月一日にとっていい兆候だと言うけれど、そんなに良くもないのではないかと思う。肝心なときに助けてくれない百目鬼など―――――
「あれ?」
泣きながら目覚めるのは偶にあるのだが、直前まで百目鬼のことを考えていたなど初めてだ。
「……あれ?」
百目鬼といえば、さっきまで手を伸ばそうとしていた男だ。柄にもなく助けてと呟いた記憶すらある。
「あれ?」
そこまで思い出して、漸く自分がいる場所がわからないという事実に気がついた。少なくとも侑子の住まいには、豪奢な襖絵の描かれた和室などなかったはずだ。柔らかく軽い掛け布団しかなかったはずなのに、四月一日に覆い被さっているのは絹の着物で、なんとか日記とかなんとか物語とかの世界に、時代を逆行して入り込んでしまったような様式だった。
ゆっくりと起き上がると少しだけ眩暈を覚える。部屋は生活感がなくて、高価そうな置物が並んでいたが、四月一日が和むようなものは一つもない。どこか寒々しいような雰囲気を感じ取り、四月一日は自分の身体を訪れる恐怖から守るように抱きしめた。
「何なんだ……ここ……」
今までアヤカシの存在に色々悪戯されてはきたものの、ここまで強行に連れ去られたことは一度もなかった。攫われる直前に侑子の声がちらと聞こえた気がしたが、そう簡単に彼女の助けを期待することもできない。どうしよう、と頭を抱えたとき、襖の向こう側から声が聞こえた。
「目覚めたか」
「え……」
「腹は空いておらぬか?人の食べる時間とやらが分からぬのだが」
「そ、れより、ここは……」
四月一日の問いかけに柔らかな声は暫し止み、僅かに硬質さを帯びた声が我が屋敷だと答える。それがどこかというのは訊いてはいけない気がして、四月一日は口を噤む。今ここで反感を買うのは宜しくないことくらいは分かる。ふと、自身の着ているものが攫われた時と同じバスローブだと気がつく。濡れた身体のまま羽織ったそれはしっとりと濡れて、このままでは掛けられた着物を濡らしてしまう。着物を洗うのは面倒なのだと主婦臭いことを脳裏に浮かべ、そしてこんな状況でも所帯じみたことを考えてしまう自分に溜息をついた。
「あの、着替えを貸して貰えませんか?このままだとこれ、濡らしちゃうんで……」
「すぐに用意させよう」
気配無く去っていく声だけの存在は、幾分か機嫌を直したらしい。当面の危機はないと悟った四月一日は、深く深呼吸をして胸に手を置いた。大丈夫、まだ動いているのだと確認する。アヤカシに食べられてしまったわけでも、殺されてしまったわけでもない。まだ生きているのだと確信した四月一日は、ここの住人の機嫌を損ねないように帰してくれる方法を考える始めた。一人であーでもないこーでもないと頭を抱えていると、襖の向こうから先ほどの声とは違う声で着替えを持ってきたのだと告げる声がする。
「あ、ありがとうございます」
「ここにございますので御取り下さいませ」
「え、あの……」
「姿をお見せすることは、主にきつく咎められます。申し訳ございませんが、この場で失礼いたします」
「そんな……」
せっかくの情報源が、と四月一日が惜しむ間もなく気配は去っていった。何故かのそのそと四つん這いで声のしたほうへと向かい、襖をそろりとあけてキョロキョロと左右を見渡す。探る必要もなく、着替えは漆塗りの小さな台の上に丁寧に畳まれていた。
「やっぱ着物か……」
持ち上げてみたそれは、やはりというか美しい刺繍のなされた着物で、別次元に紛れ込んでしまった感じを拭えない。急にむずむずとした鼻に耐えかねて、一度クシャミをした。これは身体が冷えているせいか、それとも百目鬼が妙なことを口走っているせいかなどと責任転嫁をしながら着物に袖を通す。
「そういえば、朝ご飯……」
身体が暖まり心が落ち着くと、今度はお腹が空いてくる。まだ昨夜の酒が少々残っている様な気がしたが、動けないほどではない。
「あの……」
「何でしょうか?」
何の姿も見えないのに、四月一日の声に間髪入れずに返事が返ってくる。
「うひぇっ……あ、え、えっと……お腹、空いたので……」
「すぐにお持ちいたします。部屋の中で、お待ち下さいませ」
見張られているのだろうが、止めてくれとも言えず、四月一日は声に従うしかないかと肩を竦めた。こんなとき、百目鬼ならばどうしただろうかとふと考える。
「……自分でずかずか歩いて帰りそうだよな……」
クスリと笑い、そんな強さがない自身を少しだけ自嘲していた。
お腹が空いて弱気になっていたのかもしれない。腹がいっぱいになれば気分も変わるだろうと思って、運ばれてきた御膳を見ると、食べれないものではないが朝っぱらから食べたいものではなかった。生の魚に生の貝に生の海草に生のものオンパレードで飾り立てられた食事は、人が用意したようには到底思えない。
「分かってたとはいえ、アヤカシだよなぁ……」
丁寧に扱われているとは思うが、それは人の基準からずれた持て成しだ。せめて火を通してくれと箸を手に取ることもなく項垂れた四月一日は、そこで火が使えないのかと思い至る。
「火が使えなくて、魚介類ばっかりっていったら、海……の……どこ?」
人の基準で明確な場所がわかるはずもなく、割り切って生ものを食する気分にもなれず、食事を諦めて柔らかな着物に顔から倒れこんだ。これからも潮の香りがすると呟いて、四月一日は目を瞑る。
あの男の腕に抱かれていたときの心地良さが、酷く遠いものに思えて、少しだけ涙が出た。
―――――何故泣く
「寂しい……」
―――――我が傍にいればよいか
「誰も一緒にいてくれない……」
―――――死ぬまで傍にいると約束しようぞ
「……どうして?」
―――――そなたを好いておる
「俺、アヤカシとか見えるし……」
―――――我がそなたを奪うアヤカシなど退治してやろう
「殺しちゃ、駄目……」
―――――そなたは優しすぎる
「だって……そんなの、違う……」
―――――だから我が守ろう。そなたが我を助けてくれたように
「俺、何もしてないよ……」
―――――誰にも会わせぬように閉じ込めて愛でよう
「ど、めきに……あえない……」
また眠ってしまったと四月一日が目を覚ますと、何か黒いものが蠢いているのがぼやけた視界に入ってきた。まるで舞台を支える黒子のような、闇に紛れる忍者のような格好をした者達が、四月一日に着物を着付けている。力の入らない体は簡単に真っ白い布を纏い、くらりと傾くと肌に触れることなく腰に巻かれた帯を引っ張られて引き戻される。白い布に白い糸で刺繍の入った染み一つない衣装は、四月一日の白い肌に良く似合い、黒い髪を際立たせていた。
こってりとおしろいが塗られて紅を小筆で唇に引かれる。最後に、普段滅多にお目にかからない白いものを頭の上に乗せられそうになったところで、四月一日は黒子達を手で突っぱねた。
「何乗せる気だよ!」
「奥方様……」
「何が!」
「どうか大人しくなさいませ、奥方様」
わらわらと伸ばされる手をパシンと叩き、四月一日は重たい着物のまま立ち上がる。角隠しなど被ってたまるかと、足袋を履かせられた足で後ずさる。
「誰が奥方様だ!」
光る何かが入った、少なくとも蝋燭などの火を使っている様子はない提灯を倒し、四月一日は目に付いた襖をスパーンと開け放った。誰もいない静かな廊下に足を踏み入れ、着物の裾が絡まないように持ち上げて走りだす。奥方様、奥方様、と四方八方から声が聞こえるが、四月一日の足は止まらない。どことも知れぬ場所に無理矢理つれてこられて、誰とも知らぬ者に、十中八九アヤカシに嫁いでたまるかと逃げ惑う。追いかける者達は四月一日に触れてはならぬとでも厳命されているのだろうか、肩や腕を引っつかんだりすることはない。
「どこに、逃げれば……」
気をつけていたのに、視線を彷徨わせた際に隙が生まれてどさりと転ぶ。重たい白無垢を着たままの四月一日は簡単に起き上がれず、かといって諦めることなどできず、ギリッと唇を噛んで前を見据える。真っ直ぐ真っ直ぐ、とにかく真っ直ぐ、走り続けて辿り着いた先の扉を開けた途端、四月一日はその場でへたりと力が抜けた。出口と思って開けた扉は最奥の間であったらしく、そこには一人の男がいた。
見蕩れてしまうほど整った顔立ちであるのに、恐怖すら感じる。傍にいるだけで圧倒されるような威厳を持っているくせに、気配が妙に希薄だ。しかしながら、この男がこの屋敷の主であるとなぜか直感で理解した。
「ワタヌキキミヒロ」
自分の名前のくせに自分の名前ではないような呼ばれ方をして、四月一日はゾクリと背を震わせた。
「待っていた、そなたが大きくなるのを」
「……俺、は……」
「そなたが、救った稚魚。覚えておるか?」
「し、しらなっ……知らないっ……」
脳裏を鮮明に過ぎる、モノクロームの壊れた映像。
「そなただけが我に触れられた。我を助け給うた」
「知らないっ……」
「我の住処と人の住処、時間の流れが違う故、何百年と待った」
「いやだっ……」
気をつけろと忠告してくれた人は、このことを知っていたのだろうか。だから忘れろと言ってくれたのに、四月一日の記憶からは消すことが出来なかった。情をやったつもりもなければ覚えていようと努めたつもりもないのに、大きくなった海の住人は、四月一日を待ち続けていた。そう、まるで御伽噺。乙姫の酌も鯛や平目の舞いも土産の宝箱もいらないのに、押し付けられた物語の住人はさぞかし困ったであろう。欲しかったのは、代わらない日常なのに、どうしてわかってくれないのだろう。
「……帰りたい……帰らせて……」
「我は海の主。海の王の妻となるそなたの帰る場所はここになる」
「違うっ……俺の、居場所は……つまらなくても学校に行って……ひまわりちゃんと百目鬼とご飯食べて……侑子さんちでバイトして……」
「儚い人の一生など、あっという間の出来事に過ぎぬ。美しいまま、我と永い時を生きることこそが、幸せだ」
はらはらと四月一日から溢れる涙が、海の主には見えないのだろうか。絶望に彩られた四月一日の顔が、海の王にはどうしてわからないのだろうか。
「俺はっ……帰らなきゃ……」
「帰しはせぬ。人の身では帰ることもできぬ」
男が伸ばした手を四月一日は振り払い、叩く。触れられるのもおぞましいと涙を散らす。
「いやだっ……いや……やだぁああああっ!」
喉が破れそうなほどに泣き叫んだ四月一日に怯んだのか、男は手を引っ込めた。仕方がないとそのまま泣きじゃくる娘を痛ましそうに見つめ、泣き疲れた頃にそろりと手を伸ばして華奢な身体を抱き上げた。涙に目が腫れ、血が上ってぼんやりとした頭で、それでも四月一日は抵抗する。しかしそう簡単に振りほどけるようなものでもなく、次第に意識が遠のき、そして、墜ちた。
6
2008年5月再録本予定
「あれ?」
泣きながら目覚めるのは偶にあるのだが、直前まで百目鬼のことを考えていたなど初めてだ。
「……あれ?」
百目鬼といえば、さっきまで手を伸ばそうとしていた男だ。柄にもなく助けてと呟いた記憶すらある。
「あれ?」
そこまで思い出して、漸く自分がいる場所がわからないという事実に気がついた。少なくとも侑子の住まいには、豪奢な襖絵の描かれた和室などなかったはずだ。柔らかく軽い掛け布団しかなかったはずなのに、四月一日に覆い被さっているのは絹の着物で、なんとか日記とかなんとか物語とかの世界に、時代を逆行して入り込んでしまったような様式だった。
ゆっくりと起き上がると少しだけ眩暈を覚える。部屋は生活感がなくて、高価そうな置物が並んでいたが、四月一日が和むようなものは一つもない。どこか寒々しいような雰囲気を感じ取り、四月一日は自分の身体を訪れる恐怖から守るように抱きしめた。
「何なんだ……ここ……」
今までアヤカシの存在に色々悪戯されてはきたものの、ここまで強行に連れ去られたことは一度もなかった。攫われる直前に侑子の声がちらと聞こえた気がしたが、そう簡単に彼女の助けを期待することもできない。どうしよう、と頭を抱えたとき、襖の向こう側から声が聞こえた。
「目覚めたか」
「え……」
「腹は空いておらぬか?人の食べる時間とやらが分からぬのだが」
「そ、れより、ここは……」
四月一日の問いかけに柔らかな声は暫し止み、僅かに硬質さを帯びた声が我が屋敷だと答える。それがどこかというのは訊いてはいけない気がして、四月一日は口を噤む。今ここで反感を買うのは宜しくないことくらいは分かる。ふと、自身の着ているものが攫われた時と同じバスローブだと気がつく。濡れた身体のまま羽織ったそれはしっとりと濡れて、このままでは掛けられた着物を濡らしてしまう。着物を洗うのは面倒なのだと主婦臭いことを脳裏に浮かべ、そしてこんな状況でも所帯じみたことを考えてしまう自分に溜息をついた。
「あの、着替えを貸して貰えませんか?このままだとこれ、濡らしちゃうんで……」
「すぐに用意させよう」
気配無く去っていく声だけの存在は、幾分か機嫌を直したらしい。当面の危機はないと悟った四月一日は、深く深呼吸をして胸に手を置いた。大丈夫、まだ動いているのだと確認する。アヤカシに食べられてしまったわけでも、殺されてしまったわけでもない。まだ生きているのだと確信した四月一日は、ここの住人の機嫌を損ねないように帰してくれる方法を考える始めた。一人であーでもないこーでもないと頭を抱えていると、襖の向こうから先ほどの声とは違う声で着替えを持ってきたのだと告げる声がする。
「あ、ありがとうございます」
「ここにございますので御取り下さいませ」
「え、あの……」
「姿をお見せすることは、主にきつく咎められます。申し訳ございませんが、この場で失礼いたします」
「そんな……」
せっかくの情報源が、と四月一日が惜しむ間もなく気配は去っていった。何故かのそのそと四つん這いで声のしたほうへと向かい、襖をそろりとあけてキョロキョロと左右を見渡す。探る必要もなく、着替えは漆塗りの小さな台の上に丁寧に畳まれていた。
「やっぱ着物か……」
持ち上げてみたそれは、やはりというか美しい刺繍のなされた着物で、別次元に紛れ込んでしまった感じを拭えない。急にむずむずとした鼻に耐えかねて、一度クシャミをした。これは身体が冷えているせいか、それとも百目鬼が妙なことを口走っているせいかなどと責任転嫁をしながら着物に袖を通す。
「そういえば、朝ご飯……」
身体が暖まり心が落ち着くと、今度はお腹が空いてくる。まだ昨夜の酒が少々残っている様な気がしたが、動けないほどではない。
「あの……」
「何でしょうか?」
何の姿も見えないのに、四月一日の声に間髪入れずに返事が返ってくる。
「うひぇっ……あ、え、えっと……お腹、空いたので……」
「すぐにお持ちいたします。部屋の中で、お待ち下さいませ」
見張られているのだろうが、止めてくれとも言えず、四月一日は声に従うしかないかと肩を竦めた。こんなとき、百目鬼ならばどうしただろうかとふと考える。
「……自分でずかずか歩いて帰りそうだよな……」
クスリと笑い、そんな強さがない自身を少しだけ自嘲していた。
お腹が空いて弱気になっていたのかもしれない。腹がいっぱいになれば気分も変わるだろうと思って、運ばれてきた御膳を見ると、食べれないものではないが朝っぱらから食べたいものではなかった。生の魚に生の貝に生の海草に生のものオンパレードで飾り立てられた食事は、人が用意したようには到底思えない。
「分かってたとはいえ、アヤカシだよなぁ……」
丁寧に扱われているとは思うが、それは人の基準からずれた持て成しだ。せめて火を通してくれと箸を手に取ることもなく項垂れた四月一日は、そこで火が使えないのかと思い至る。
「火が使えなくて、魚介類ばっかりっていったら、海……の……どこ?」
人の基準で明確な場所がわかるはずもなく、割り切って生ものを食する気分にもなれず、食事を諦めて柔らかな着物に顔から倒れこんだ。これからも潮の香りがすると呟いて、四月一日は目を瞑る。
あの男の腕に抱かれていたときの心地良さが、酷く遠いものに思えて、少しだけ涙が出た。
―――――何故泣く
「寂しい……」
―――――我が傍にいればよいか
「誰も一緒にいてくれない……」
―――――死ぬまで傍にいると約束しようぞ
「……どうして?」
―――――そなたを好いておる
「俺、アヤカシとか見えるし……」
―――――我がそなたを奪うアヤカシなど退治してやろう
「殺しちゃ、駄目……」
―――――そなたは優しすぎる
「だって……そんなの、違う……」
―――――だから我が守ろう。そなたが我を助けてくれたように
「俺、何もしてないよ……」
―――――誰にも会わせぬように閉じ込めて愛でよう
「ど、めきに……あえない……」
また眠ってしまったと四月一日が目を覚ますと、何か黒いものが蠢いているのがぼやけた視界に入ってきた。まるで舞台を支える黒子のような、闇に紛れる忍者のような格好をした者達が、四月一日に着物を着付けている。力の入らない体は簡単に真っ白い布を纏い、くらりと傾くと肌に触れることなく腰に巻かれた帯を引っ張られて引き戻される。白い布に白い糸で刺繍の入った染み一つない衣装は、四月一日の白い肌に良く似合い、黒い髪を際立たせていた。
こってりとおしろいが塗られて紅を小筆で唇に引かれる。最後に、普段滅多にお目にかからない白いものを頭の上に乗せられそうになったところで、四月一日は黒子達を手で突っぱねた。
「何乗せる気だよ!」
「奥方様……」
「何が!」
「どうか大人しくなさいませ、奥方様」
わらわらと伸ばされる手をパシンと叩き、四月一日は重たい着物のまま立ち上がる。角隠しなど被ってたまるかと、足袋を履かせられた足で後ずさる。
「誰が奥方様だ!」
光る何かが入った、少なくとも蝋燭などの火を使っている様子はない提灯を倒し、四月一日は目に付いた襖をスパーンと開け放った。誰もいない静かな廊下に足を踏み入れ、着物の裾が絡まないように持ち上げて走りだす。奥方様、奥方様、と四方八方から声が聞こえるが、四月一日の足は止まらない。どことも知れぬ場所に無理矢理つれてこられて、誰とも知らぬ者に、十中八九アヤカシに嫁いでたまるかと逃げ惑う。追いかける者達は四月一日に触れてはならぬとでも厳命されているのだろうか、肩や腕を引っつかんだりすることはない。
「どこに、逃げれば……」
気をつけていたのに、視線を彷徨わせた際に隙が生まれてどさりと転ぶ。重たい白無垢を着たままの四月一日は簡単に起き上がれず、かといって諦めることなどできず、ギリッと唇を噛んで前を見据える。真っ直ぐ真っ直ぐ、とにかく真っ直ぐ、走り続けて辿り着いた先の扉を開けた途端、四月一日はその場でへたりと力が抜けた。出口と思って開けた扉は最奥の間であったらしく、そこには一人の男がいた。
見蕩れてしまうほど整った顔立ちであるのに、恐怖すら感じる。傍にいるだけで圧倒されるような威厳を持っているくせに、気配が妙に希薄だ。しかしながら、この男がこの屋敷の主であるとなぜか直感で理解した。
「ワタヌキキミヒロ」
自分の名前のくせに自分の名前ではないような呼ばれ方をして、四月一日はゾクリと背を震わせた。
「待っていた、そなたが大きくなるのを」
「……俺、は……」
「そなたが、救った稚魚。覚えておるか?」
「し、しらなっ……知らないっ……」
脳裏を鮮明に過ぎる、モノクロームの壊れた映像。
「そなただけが我に触れられた。我を助け給うた」
「知らないっ……」
「我の住処と人の住処、時間の流れが違う故、何百年と待った」
「いやだっ……」
気をつけろと忠告してくれた人は、このことを知っていたのだろうか。だから忘れろと言ってくれたのに、四月一日の記憶からは消すことが出来なかった。情をやったつもりもなければ覚えていようと努めたつもりもないのに、大きくなった海の住人は、四月一日を待ち続けていた。そう、まるで御伽噺。乙姫の酌も鯛や平目の舞いも土産の宝箱もいらないのに、押し付けられた物語の住人はさぞかし困ったであろう。欲しかったのは、代わらない日常なのに、どうしてわかってくれないのだろう。
「……帰りたい……帰らせて……」
「我は海の主。海の王の妻となるそなたの帰る場所はここになる」
「違うっ……俺の、居場所は……つまらなくても学校に行って……ひまわりちゃんと百目鬼とご飯食べて……侑子さんちでバイトして……」
「儚い人の一生など、あっという間の出来事に過ぎぬ。美しいまま、我と永い時を生きることこそが、幸せだ」
はらはらと四月一日から溢れる涙が、海の主には見えないのだろうか。絶望に彩られた四月一日の顔が、海の王にはどうしてわからないのだろうか。
「俺はっ……帰らなきゃ……」
「帰しはせぬ。人の身では帰ることもできぬ」
男が伸ばした手を四月一日は振り払い、叩く。触れられるのもおぞましいと涙を散らす。
「いやだっ……いや……やだぁああああっ!」
喉が破れそうなほどに泣き叫んだ四月一日に怯んだのか、男は手を引っ込めた。仕方がないとそのまま泣きじゃくる娘を痛ましそうに見つめ、泣き疲れた頃にそろりと手を伸ばして華奢な身体を抱き上げた。涙に目が腫れ、血が上ってぼんやりとした頭で、それでも四月一日は抵抗する。しかしそう簡単に振りほどけるようなものでもなく、次第に意識が遠のき、そして、墜ちた。
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