聞かせたくない鼓動
百目鬼×四月一日/四月一日女体化
大して頭に入るでもない授業の後、大荷物を持っていつもの階段へと歩いていく。ひまわりは職員室に寄ってから向かうとのことだったので、一人でとぼとぼと歩く。人には見えないはずの奇怪なものが視界に飛び込んでくるのを必死に無視しつつ、廊下を曲がるとそこにはすでに百目鬼の姿があった。一気にげんなりした態度で顔を顰めるが、百目鬼は気にした様子もなく四月一日の手をひっぱって顔を寄せた。
「なっ!」
「……熱はないようだが、蒼白いな。何かあったか?」
「な、何も、ないって!手、離せって!」
一瞬朝の夢が脳裏を過ぎるが口にするようなものでもなく、四月一日は言い表せない不安を転嫁するかのようにむっとした目で百目鬼を見やる。
「何もないならいい」
「あ、ああ……」
するりと離れた手が中途半端に宙に浮く。昼の貴重な時間はじわじわと少なくなっていくのに、見つめあったまま何故だか目が逸らせないのだ。何も見えないくせして四月一日の憂いを全て見透かすような真っ直ぐな目に、安堵の様な恐怖のような胸が苦しくなる様な感情を覚えてしまう。どうせ言ったところでこの苦しみをわかってくれるはずないのに、否、これが苦しいのかどうかすら四月一日自身理解できていないのに、どう説明すればいいのか、否、説明しなければいけないのか、否、否、考えれば考えるほど思考がこんがらがってくる。
コクリと生唾を飲み込んだところで、ぱたぱたと走り寄ってくるか細い足音が聞こえる。四月一日にとっては愛しいはずのひまわりが、空気に罅を入れてしまったような、奇妙な喪失漢を味わった。
「遅くなってごめんね。あれ?まだ食べてなかったの?」
「……ああ」
「……い、い、いい今、今用意するから……」
「急がなくてもいいよ、四月一日君」
彼女のためにケーキを焼いてきたのに、彼女のために特別な茶葉も手に入れたのに、彼女のために、拵えたのに。どうしてこんなに稲荷の量が多いのだろうか。自分で作ったくせに四月一日は、首を捻りながら二人のために箸を取り出した。
美味しかったというひまわりの言葉と、何も言わずにもくもくと全部食べてくれる百目鬼と、どちらも甲乙つけがたく嬉しい存在だ。食べ終わった器は早々に洗っておかないと、家に帰ってから困るのは四月一日だ。しかも今日はバイトが入っていないものの、家に帰る前に取り分けておいた紅茶のシフォンケーキを侑子に持って行かなければならないだろう。
幸いにも、三人ともいつも綺麗に残ることなく食べるので、こびり付いた油汚れを洗うくらいのものだが。ひまわりが手伝うというのを丁重に断り、手洗い場で蛇口を捻った。流れ出す冷たい水は人間用に殺菌消毒されたもの、異物が入り込む隙もない。水に手を浸し、汚れ物を洗う。放心したように洗い続けると、手に持つ弁当箱が今朝の夢とシンクロして、まるで何か生きているものを持っているような感触が肌を這い上がる。ぞっとして取り落とすと、それに弾かれた水が四月一日に降りかかった。
「っ!冷たいっ……」
それは少し跳ねたとは到底思えないほどの水量、髪の毛から靴の仲間でびっしょりと濡れ、驚いて腰を抜かした四月一日の座る場所に水溜りが出来るほどだった。
「なんだ……これ……」
―――――バケツで水ごと掬われた金魚のように、地に投げ出された小さな魚が苦しんでいる。
―――――早くしなゐと、逝つてしまふよ。
「……息、が……できな……」
喉を押さえ、胸を押さえ、どうしても入ってこない酸素に四月一日の頭の中が白く靄がかっていく。空気に覆われた陸の上、学校という人の集まる場所であるのに、四月一日はここで溺れかけている。
「た……すけ……」
苦しくて力の入らない身体が傾いで、肩からどさりと地に倒れる。手を伸ばしてももう何も前が見えず、水の底に沈んでいくように何もかもがあやふやだ。それなのに流れる涙は重力に従って四月一日の頬を伝う。
「……め、き……」
無意識で呟いた言葉は、水の中を浮かんでいく気泡のように、ほんの僅かな音となって、そして消えた。
身体が重たくて、冷たくて、寒くて、なのに手だけ温かい。ゆっくりと目を開けた四月一日が見たのは真っ暗になった窓の外、見慣れた自分の部屋、すっかり見慣れてしまった男の顔だった。百目鬼の顔で一気に覚醒した四月一日が次に気付いたのは、しっかりと握られた自らの手と男の手だ。腹立たしいほどに大きさの違うその手は、体温すら違うようで酷く戸惑う。これが男同士であるならば、それなりに男としてのプライドを傷つけられるところであったし、不快感を露わにしたであろうが、今は男であると演じる必要はない。包み込む手の大きさに、温かさに、安堵するだけでよかった。
「……百目鬼?」
返事がないところを見ると、四月一日の手を握り締めたまま眠り込んでしまっているようだ。胡坐をかき、俯いて眠る百目鬼は、出来のいい彫刻を見ているかのようにいい男だ。目を瞑っていても、その精悍さが損なわれることはなく、四月一日の胸の奥を揺さぶる。
「俺、また……こいつに……」
助けられてしまったのかという言葉は、喉元で引っかかって出てこない。今度は別の意味で苦しくなってきたような気がして、誤魔化しの咳払いをするが、それでも百目鬼が目覚める様子はなかった。眠り続ける男にせめて上着でも掛けてやろうかとすると、繋がった手が四月一日の動きを制限している。しっかりと握り締められたそれは、四月一日が少し揺さぶったくらいでは外れそうもない。無理矢理一本ずつ指を引き剥がせば離れないこともないだろうが、そこまでするのも面倒臭いし、そこまでしてどうしても離れたいという気持ちも沸いてこない。
「……ったく……」
風邪引くっつーの、とぶつぶつと呟きながら顔を真っ赤にして、自分に覆い被さっている掛け布団を少しだけ払いのける。四月一日はなるべく百目鬼に触れないように、男の身体を横に引き倒した。眠って力の入らない身体を倒すくらいならば、片手を封じられた四月一日にも簡単に出来る。妙な体勢ではあるが、横たわった身体に掛け布団をふわりと乗せる。思った以上に身体が冷えていたのだろうか、百目鬼は無意識に動いて暖かな四月一日のほうに擦り寄ってくる。
「ッ!ん、な……寄ってくるなよ……」
もしやすでに目が覚めているのではと掌をひらひらと百目鬼の顔の前で動かすが何の反応もなく、四月一日の身体を抱き枕と勘違いでもしているのか、細い身体を抱き寄せて、そこで動きが止まった。
「ギャッ!な、何しやが……」
怒り飛ばそうにも、耳元に安らかな寝息が聞こえてくる。意外にも寝汚かった百目鬼は、四月一日の慌てた声にも動じることなく眠り続けていた。考えてみれば、濡れた四月一日を学校から家までずっと抱き上げて帰ってきたのだろう。意識の無い重たい人間を運んだ後、疲れていないはずもない。そう、自分は濡れていたのだと四月一日が思い出したとき、ざっと身体中から血の気が引いた。
「俺……今、何着てる……」
苦しくて余り記憶に無かったが、確かに四月一日の身体はびしょびしょに濡れて、上着を脱がせたくらいでどうにかなるような状態ではなかったはずだ。だが、着慣れたパジャマの感触に、濡れていない下着、だが濡れていたことは少し湿ったままの髪の毛が証明している。濡れた四月一日を抱いていた百目鬼も濡れないはずがない。四月一日の家に勝手に泊まっていくときのために百目鬼が勝手においてあった着替えが、おそらく今の彼の服装なのだろう。部屋を見回せば、二人分の黒い学生服はハンガーに吊り下げられている。それを発見した途端に、ピーピーと電子音が響き渡った。乾燥機つきの洗濯機が、乾燥まで全て終えたのだと告げている。
「びっくり……した……」
張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたが、それでも下がった血の気は戻らない。濡れた服は、洗濯機の中。濡れた下着も、洗濯機の中。濡れた身体は、百目鬼の腕の中。濡れた身体は、見られてはいけない秘密が―――――
「わぁああああっ!」
「な、んだ……疳の虫か?」
「違う!お、お、おおおおお前、ままままさか……」
「何だ?」
いつもと変わらぬ様子で訊かれ、どもっていた四月一日は金魚のようにパクパクと口を閉じたり開いたりして、出てこない言葉にもどかしさを覚える。「見た?」と問えば、「何を」と返され「身体を」と言えば「だから」と言われ「誰にも言わないでくれ」と願えば「誰に言うのか」と首を捻られそうだ。四月一日は自ら想像した会話にゾクリと身体を震わせるが、このまま放置するわけにもいかない。
「み、みみ、み、見た?」
わざわざ会話のシミュレーションまで頭の中で行ったくせに、四月一日の口から零れたのは全く同じ言葉だった。
「何を」
予想通りの言葉が返され、頭が真っ白になった四月一日はやはり想像したのと同じ言葉を吐いた。
「か、身体……」
「……ああ」
「そ、その……」
「誰にも言わん。言う必要も無いだろう」
先手を打たれた四月一日は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして百目鬼を見つめる。
「隠していたからにはそれなりの理由があるんだろう」
「……というか、今更どうしたらいいか、わかんねーっつーか……」
どんどん声が小さくなる四月一日を見つめていた百目鬼は、ほんの少しだけ口元を緩めてわかる人にしかわからないような笑みを浮かべる。四月一日は更に目を丸くしてぽかんと口を開けたまま、至近距離の男を無防備に見続けた。
「今のままで困らないなら、それでいいんじゃないか」
「そ、かな……」
少しだけ安堵した四月一日は、開けたままの口からほぅと溜息を漏らして安堵を滲ませる。ありがとうと象った四月一日の口元を見た百目鬼は、何も言わずに抱きしめた腕に力を込める。まるで恋人同士のように寄り添う姿に気がついていないのか、四月一日は安心しきって目を閉じた。
「……四月一日」
「……ん?」
「いや、なんでもない」
「ん……」
流石に無防備すぎる。隣に横たわるのは正真正銘の男なのだが、と忠告しようとした所で、四月一日の髪の毛からふわりとありえない香りが漂う。水道の水を被ったとは思えない香り。磯の香り。潮の香り。まるで海に潜ったかのような香りに、百目鬼は只ならぬ焦燥感を覚え、離してはなるまいと更に四月一日を引き寄せる。
何かに、四月一日を盗られそうな気がしていた。
だから、首の付け根の、四月一日では見えない辺りに、ちょっとした印をつけても構わないと何故だか勝手に思い込んでいた。のアヤカシがケケケと気味の悪い声で笑ったような気がした。四月一日はそれを無視して授業を真剣に聞いているふりをした。アヤカシはつまらなさそうにぷいっとそっぽを向いて黙り込んだようだった。
本当は、少しだけ百目鬼のことを考えていた。
3
2008年5月再録本予定
「なっ!」
「……熱はないようだが、蒼白いな。何かあったか?」
「な、何も、ないって!手、離せって!」
一瞬朝の夢が脳裏を過ぎるが口にするようなものでもなく、四月一日は言い表せない不安を転嫁するかのようにむっとした目で百目鬼を見やる。
「何もないならいい」
「あ、ああ……」
するりと離れた手が中途半端に宙に浮く。昼の貴重な時間はじわじわと少なくなっていくのに、見つめあったまま何故だか目が逸らせないのだ。何も見えないくせして四月一日の憂いを全て見透かすような真っ直ぐな目に、安堵の様な恐怖のような胸が苦しくなる様な感情を覚えてしまう。どうせ言ったところでこの苦しみをわかってくれるはずないのに、否、これが苦しいのかどうかすら四月一日自身理解できていないのに、どう説明すればいいのか、否、説明しなければいけないのか、否、否、考えれば考えるほど思考がこんがらがってくる。
コクリと生唾を飲み込んだところで、ぱたぱたと走り寄ってくるか細い足音が聞こえる。四月一日にとっては愛しいはずのひまわりが、空気に罅を入れてしまったような、奇妙な喪失漢を味わった。
「遅くなってごめんね。あれ?まだ食べてなかったの?」
「……ああ」
「……い、い、いい今、今用意するから……」
「急がなくてもいいよ、四月一日君」
彼女のためにケーキを焼いてきたのに、彼女のために特別な茶葉も手に入れたのに、彼女のために、拵えたのに。どうしてこんなに稲荷の量が多いのだろうか。自分で作ったくせに四月一日は、首を捻りながら二人のために箸を取り出した。
美味しかったというひまわりの言葉と、何も言わずにもくもくと全部食べてくれる百目鬼と、どちらも甲乙つけがたく嬉しい存在だ。食べ終わった器は早々に洗っておかないと、家に帰ってから困るのは四月一日だ。しかも今日はバイトが入っていないものの、家に帰る前に取り分けておいた紅茶のシフォンケーキを侑子に持って行かなければならないだろう。
幸いにも、三人ともいつも綺麗に残ることなく食べるので、こびり付いた油汚れを洗うくらいのものだが。ひまわりが手伝うというのを丁重に断り、手洗い場で蛇口を捻った。流れ出す冷たい水は人間用に殺菌消毒されたもの、異物が入り込む隙もない。水に手を浸し、汚れ物を洗う。放心したように洗い続けると、手に持つ弁当箱が今朝の夢とシンクロして、まるで何か生きているものを持っているような感触が肌を這い上がる。ぞっとして取り落とすと、それに弾かれた水が四月一日に降りかかった。
「っ!冷たいっ……」
それは少し跳ねたとは到底思えないほどの水量、髪の毛から靴の仲間でびっしょりと濡れ、驚いて腰を抜かした四月一日の座る場所に水溜りが出来るほどだった。
「なんだ……これ……」
―――――バケツで水ごと掬われた金魚のように、地に投げ出された小さな魚が苦しんでいる。
―――――早くしなゐと、逝つてしまふよ。
「……息、が……できな……」
喉を押さえ、胸を押さえ、どうしても入ってこない酸素に四月一日の頭の中が白く靄がかっていく。空気に覆われた陸の上、学校という人の集まる場所であるのに、四月一日はここで溺れかけている。
「た……すけ……」
苦しくて力の入らない身体が傾いで、肩からどさりと地に倒れる。手を伸ばしてももう何も前が見えず、水の底に沈んでいくように何もかもがあやふやだ。それなのに流れる涙は重力に従って四月一日の頬を伝う。
「……め、き……」
無意識で呟いた言葉は、水の中を浮かんでいく気泡のように、ほんの僅かな音となって、そして消えた。
身体が重たくて、冷たくて、寒くて、なのに手だけ温かい。ゆっくりと目を開けた四月一日が見たのは真っ暗になった窓の外、見慣れた自分の部屋、すっかり見慣れてしまった男の顔だった。百目鬼の顔で一気に覚醒した四月一日が次に気付いたのは、しっかりと握られた自らの手と男の手だ。腹立たしいほどに大きさの違うその手は、体温すら違うようで酷く戸惑う。これが男同士であるならば、それなりに男としてのプライドを傷つけられるところであったし、不快感を露わにしたであろうが、今は男であると演じる必要はない。包み込む手の大きさに、温かさに、安堵するだけでよかった。
「……百目鬼?」
返事がないところを見ると、四月一日の手を握り締めたまま眠り込んでしまっているようだ。胡坐をかき、俯いて眠る百目鬼は、出来のいい彫刻を見ているかのようにいい男だ。目を瞑っていても、その精悍さが損なわれることはなく、四月一日の胸の奥を揺さぶる。
「俺、また……こいつに……」
助けられてしまったのかという言葉は、喉元で引っかかって出てこない。今度は別の意味で苦しくなってきたような気がして、誤魔化しの咳払いをするが、それでも百目鬼が目覚める様子はなかった。眠り続ける男にせめて上着でも掛けてやろうかとすると、繋がった手が四月一日の動きを制限している。しっかりと握り締められたそれは、四月一日が少し揺さぶったくらいでは外れそうもない。無理矢理一本ずつ指を引き剥がせば離れないこともないだろうが、そこまでするのも面倒臭いし、そこまでしてどうしても離れたいという気持ちも沸いてこない。
「……ったく……」
風邪引くっつーの、とぶつぶつと呟きながら顔を真っ赤にして、自分に覆い被さっている掛け布団を少しだけ払いのける。四月一日はなるべく百目鬼に触れないように、男の身体を横に引き倒した。眠って力の入らない身体を倒すくらいならば、片手を封じられた四月一日にも簡単に出来る。妙な体勢ではあるが、横たわった身体に掛け布団をふわりと乗せる。思った以上に身体が冷えていたのだろうか、百目鬼は無意識に動いて暖かな四月一日のほうに擦り寄ってくる。
「ッ!ん、な……寄ってくるなよ……」
もしやすでに目が覚めているのではと掌をひらひらと百目鬼の顔の前で動かすが何の反応もなく、四月一日の身体を抱き枕と勘違いでもしているのか、細い身体を抱き寄せて、そこで動きが止まった。
「ギャッ!な、何しやが……」
怒り飛ばそうにも、耳元に安らかな寝息が聞こえてくる。意外にも寝汚かった百目鬼は、四月一日の慌てた声にも動じることなく眠り続けていた。考えてみれば、濡れた四月一日を学校から家までずっと抱き上げて帰ってきたのだろう。意識の無い重たい人間を運んだ後、疲れていないはずもない。そう、自分は濡れていたのだと四月一日が思い出したとき、ざっと身体中から血の気が引いた。
「俺……今、何着てる……」
苦しくて余り記憶に無かったが、確かに四月一日の身体はびしょびしょに濡れて、上着を脱がせたくらいでどうにかなるような状態ではなかったはずだ。だが、着慣れたパジャマの感触に、濡れていない下着、だが濡れていたことは少し湿ったままの髪の毛が証明している。濡れた四月一日を抱いていた百目鬼も濡れないはずがない。四月一日の家に勝手に泊まっていくときのために百目鬼が勝手においてあった着替えが、おそらく今の彼の服装なのだろう。部屋を見回せば、二人分の黒い学生服はハンガーに吊り下げられている。それを発見した途端に、ピーピーと電子音が響き渡った。乾燥機つきの洗濯機が、乾燥まで全て終えたのだと告げている。
「びっくり……した……」
張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたが、それでも下がった血の気は戻らない。濡れた服は、洗濯機の中。濡れた下着も、洗濯機の中。濡れた身体は、百目鬼の腕の中。濡れた身体は、見られてはいけない秘密が―――――
「わぁああああっ!」
「な、んだ……疳の虫か?」
「違う!お、お、おおおおお前、ままままさか……」
「何だ?」
いつもと変わらぬ様子で訊かれ、どもっていた四月一日は金魚のようにパクパクと口を閉じたり開いたりして、出てこない言葉にもどかしさを覚える。「見た?」と問えば、「何を」と返され「身体を」と言えば「だから」と言われ「誰にも言わないでくれ」と願えば「誰に言うのか」と首を捻られそうだ。四月一日は自ら想像した会話にゾクリと身体を震わせるが、このまま放置するわけにもいかない。
「み、みみ、み、見た?」
わざわざ会話のシミュレーションまで頭の中で行ったくせに、四月一日の口から零れたのは全く同じ言葉だった。
「何を」
予想通りの言葉が返され、頭が真っ白になった四月一日はやはり想像したのと同じ言葉を吐いた。
「か、身体……」
「……ああ」
「そ、その……」
「誰にも言わん。言う必要も無いだろう」
先手を打たれた四月一日は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして百目鬼を見つめる。
「隠していたからにはそれなりの理由があるんだろう」
「……というか、今更どうしたらいいか、わかんねーっつーか……」
どんどん声が小さくなる四月一日を見つめていた百目鬼は、ほんの少しだけ口元を緩めてわかる人にしかわからないような笑みを浮かべる。四月一日は更に目を丸くしてぽかんと口を開けたまま、至近距離の男を無防備に見続けた。
「今のままで困らないなら、それでいいんじゃないか」
「そ、かな……」
少しだけ安堵した四月一日は、開けたままの口からほぅと溜息を漏らして安堵を滲ませる。ありがとうと象った四月一日の口元を見た百目鬼は、何も言わずに抱きしめた腕に力を込める。まるで恋人同士のように寄り添う姿に気がついていないのか、四月一日は安心しきって目を閉じた。
「……四月一日」
「……ん?」
「いや、なんでもない」
「ん……」
流石に無防備すぎる。隣に横たわるのは正真正銘の男なのだが、と忠告しようとした所で、四月一日の髪の毛からふわりとありえない香りが漂う。水道の水を被ったとは思えない香り。磯の香り。潮の香り。まるで海に潜ったかのような香りに、百目鬼は只ならぬ焦燥感を覚え、離してはなるまいと更に四月一日を引き寄せる。
何かに、四月一日を盗られそうな気がしていた。
だから、首の付け根の、四月一日では見えない辺りに、ちょっとした印をつけても構わないと何故だか勝手に思い込んでいた。のアヤカシがケケケと気味の悪い声で笑ったような気がした。四月一日はそれを無視して授業を真剣に聞いているふりをした。アヤカシはつまらなさそうにぷいっとそっぽを向いて黙り込んだようだった。
本当は、少しだけ百目鬼のことを考えていた。
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