聞かせたくない鼓動

百目鬼×四月一日/四月一日女体化

 何かくすぐったいものが顔の傍を飛んでいる。手を伸ばして掴もうとすると、ひらりと逃げる。更に手を伸ばすと、指先に触れたものは一枚の紙だった。窓の外からの月明かりしかないような中で紙に書かれた文字だけが淡く光り、寝ぼけた眼に言葉が入る。そこに書かれていたことを理解した百目鬼は、手を繋いだままだった四月一日の身体を軽く揺さぶった。
「ん、ん……」
「侑子さんが呼んでいるぞ」
「んー……ん、ぅえ?」
「飯、作りに来いって。シフォンケーキも忘れるなと書いてあるぞ」
 いまいち理解できていない四月一日はぼんやりと半分眠ったまま、百目鬼の顔を見上げた。
「起きろ、四月一日」
「んー……あと、ごふん……」
「いいから起きろ」
 引きずりこまれるように眠りに落ちた四月一日を見て、百目鬼はゴクリと息を飲み込むと、乾いた唇に唇を重ね合わせた。少し触れるだけのそれでは何も起こらず、百目鬼は何度か啄ばむように口付け、そしてそろりと舌で唇を辿った。ふ、と漏れた吐息が百目鬼の理性に皹を入れ、僅かな隙間に舌を押し入れる。思った以上にぬるりと滑りこんだ舌が、四月一日の歯列に辿り着くと、更に理性が崩れていく。口腔をゆっくりと弄るように舌でかき混ぜ、溢れた互いの唾液を舌で救い上げて嚥下する。ちゅく、と奏でる音が耳に絡みついて離れない。無意識に百目鬼の手がパジャマにかかったところで、四月一日は漸く覚醒した。
「ん、んん?」
「んんんん」
「んん――――ッ!んーっんうー!」
「んん」
 口が塞がったまま叫ぼうとする四月一日と、口が塞がったまま受け答えをしようとする百目鬼と、似たり寄ったりの珍妙な声をあげて珍妙な会話が成り立つ。
「ぷはぁっ!な、ななな、な、何を……」
「起きないのが悪い」
「だからって性質悪い起こし方するな!」
「揺らして起きないのが悪い」
「なんで俺が悪いんだよ!」
 怒り狂う四月一日をじっと見据え、百目鬼は少し腹立たしげに眉間に皺を寄せる。少し怯んだ四月一日に覆い被さり、再び唇が触れるか触れないかの所まで顔を近づけると、ぎゃんぎゃん喚いていた唇がピタリと止まった。
「これ以上喚くと、もう一度、するぞ」
「ひっ……」
 こくりと生唾を飲み込んだ四月一日は百目鬼が怖かったのだろうか、それとも単に無意識だったのか。しかしながら、その嚥下音が百目鬼を煽ったのか、再び唇がゆっくりと重なった。
「ッ!」
 大きく目を見開いた四月一日を見下ろしながら、百目鬼の舌は先程よりも大胆に口腔を舐る。驚きすぎて拒否することを忘れた四月一日は、粘膜が擦れる感触をそのまま受け入れてしまい、その刺激に背筋が震えるのがわかった。耳が直接舐られているような、にちゃり、くちゅり、と淫猥な音がする。ゾクリと腹の奥が疼くような気がして四月一日はぎゅっと目を瞑った。
「ん、ん……」
 四月一日の頭がだんだんぼやけてくる。百目鬼も同じだろう、何も考えることなく、ただ唇を重ね合わせて舌を絡めている。無意識に身体が逆らえず、無意識に身体が動く。もう何がどうなってもいいと四月一日の腕が百目鬼の背に回されたとき、指先をツンツンと突っつくものに気付く。振り払っても振り払っても突っついてくるそれをちろりと薄目で見やると、侑子が使う蝶々が淡く光りつつしつこく四月一日を擽っていた。それはつまり、今の姿を彼女に知られているということに他ならない。
「んんーっ!」
 そもそも侑子が四月一日のことで知らないことなどないのだが、それでもあからさまに見ていると告げられると羞恥心が津波のように押し寄せる。必死に百目鬼の身体を突っぱねて唇を離すと、涙の滲んだ目で男をねめつけた。
「ゆ、侑子さんが、見てるの知ってたんだろ!」
 こくりと頷く百目鬼に、四月一日は容赦なく男の胸元をひっぱたく。
「馬鹿!馬鹿野郎!」
「痛い」
「なんでこんなことするんだよ!」
「駄目なのか?」
 存外に心地良かったキスに、良いとも悪いとも言えず、四月一日はぐっと言葉を詰まらせて目だけで百目鬼を詰る。仄かな月明りの中で光る涙、それが更に男を煽っているのだとは理解できないのだろうと百目鬼が内心呆れていても、無表情と同義であるような彼の表情に心情が表れることはない。
「……バカ……」
 四月一日の手に止まった蝶々は一枚の紙となり、乳繰り合ってないでさっさと来いとの旨が記されている。ご丁寧に暗闇の中でも読める仕様にしてあるのは侑子の優しさか単なる揶揄か。
「そろそろ行かないと不味いな」
「……お前のせいだろ」
「俺のせいだな」
「しれっと言うなしれっと!ったく……お前も早く着替えろ!あ、あっち向けよ」
 下着まで脱がせて着替えさせたのに今更と不満気な百目鬼の首を無理矢理捻り、四月一日の貧弱な身体が視界に入らないようにする。電灯をつけると異界の住人は見えにくくなるが、四月一日の身体は丸見えだ。百目鬼は生乾きの制服を着込みながらも、恥じらいながらも着替えるほうがそそることは黙っておいた。


 ケーキの入った紙袋は百目鬼が持っていた。それ以外に大した荷物もなかったから、何故だか百目鬼の手が四月一日の手をずっと掴んだまま歩いていた。四月一日はほんのりと顔を赤らめたまま、ブツブツと小さな声で子どもじゃないだの恥ずかしいだのと文句を言いながらもその手を振りほどくことはなかった。四月一日の力では振りほどくことができなかったと言う方が正しいのかもしれない。
「なあ」
「鰤の照り焼きが食いたい」
「いきなりリクエストすんじゃねーよ!」
「白菜の浅漬けも作れ」
「だーかーらっ!」
 端っから四月一日の言い分など聞いちゃいないのだろう、百目鬼は半ば抱き寄せるようにして歩く。ほんの僅か、いつもよりも歩調が速いのは照れ隠しだということを、紅くなる頬を隠すのに精一杯の四月一日が気がつくはずもなかった。

「あらあら、らぶらぶねー」
「らぶらぶー」
「らぶらぶー」
 酒瓶を抱えた侑子が手を繋いだままの二人の到着を揶揄すると、マルとモロが綺麗に声を合わす。
「い、いや、あの、これはっ、俺が今日変なアヤカシに……」
 身振り手振りで、へにゃりへにゃりと身体を妙な具合に揺らめかせて全身で否定するものの、それでも離れない手のせいで説得力が全くと言っていいほど無い。
「いいから早く作ってねー」
「話くらい聞いてくださいよ!」
 喚く四月一日を軽くあしらって、手にした酒瓶で台所を示す。下手をすると酒瓶でぐりぐりされかねないと、四月一日は反論することを諦めてそちらに足を向けると、しつこくも手を繋いだままの百目鬼も引っ張られる。しかし、その手は侑子によってあっさりと離され、シフォンケーキの入った包みだけが四月一日に渡される。
「百目鬼君はこっちー」
「コッチー」
「コッチー」
「……はい」
 漸く手が離されたことで、これが異常な状態であったことに今更ながら気付かされた四月一日は、酔った海老か茹でた蛸かと言わんばかりに真っ赤になって台所に走っていった。
「まっかっかー」
「まっかっかー」
 マルとモロが揶揄する声が届く前に走り去ったのは幸いだったかもしれない。シフォンケーキが変形していなければいいがと、無表情で心配する百目鬼は、侑子に連れられて香の焚き染められた部屋に腰を下ろす。注がれた透明な酒は少し辛口だが爽やかな味わいをした、上等な大吟醸だった。くいっと一口含んだ百目鬼を見ながら、侑子は四月一日への伝言をマルとモロに囁いて、少女達を台所に走らせた。
「四月一日の、身体のことですか?」
 先に口を開いた百目鬼は、真っ直ぐに侑子を見つめている。彼女が四月一日を気にかける度合いは、バイトとバイト先の主人という関係性を遙かに上回っていることくらい、百目鬼にもわかる。
「……そうよ」
「俺は、誰にも言いませんが」
「そうね。でも、問題はそこじゃない」
 まるで水のように侑子の喉に通っていく酒は、ほんの僅かな間にごっそりと減っていく。
「貴方は、四月一日を守れるかしら」
「……それは、アヤカシから?」
「全ての存在から。『彼女』を襲う、災厄全て。望むと望まざるとに関わらず訪れる有象無象の全てから、四月一日を奪い取るだけの覚悟があるかしら?」
 侑子の話す意図を測りかね、百目鬼は猪口を持ったまま口を噤む。その間も彼女は次々に酒を飲むが酒に呑まれる様子はちらとも見えない。それはただ傍で見守るだけなのか、一番近い場所にいていいという意味なのか、四月一日の全てを知っても構わない許可なのか、今の百目鬼にはきっちり理解することが出来なかった。侑子は返事がないことを分かっていたのか、大きな一升瓶を逆さにして何も出てこなくなったところで、にっこりと微笑んだ。
「宿題にしておくわ」
「宿題、ですか」
「そのときになれば、どうせ決めなければならないから。今、言葉にする必要もないわね」
 すっくと立ち上がった彼女は、戸棚を開けて新たな瓶を手に取る。封を切って百目鬼の猪口に並々と注がれる酒は、美味しいはずなのに、どこか苦く感じられた。僅かながら顰めた顔に、侑子は視線で扉の向こうを示す。静かな足音が聞こえ、衣擦れの音が止まる。扉を開けると、四月一日と共に香ばしい焼き魚に野菜炒め、吸い物に漬物と空の茶碗が盆の上に乗っていた。
「残り取ってくるから」
「ああ」
 皆まで言わずとも何をすればいいかぐらいは分かる。百目鬼は四月一日から盆を受け取り、後ろに控えていたマルとモロの持っていた取り皿や箸と一緒に台の上に並べていく。夜も遅く、少女達はもう眠るのだろう、侑子の横を通り過ぎて奥の部屋に入っていく。
「すいません、時間かかっちゃって…」
「いいのよ。私と百目鬼君の食べたいものが違っただけだもの」
 四月一日は何も言えずに顔を伏せてご飯をよそう。酒の肴扱いであるので、味噌汁は少々濃い目に作ってあった。侑子用の塩焼きと、百目鬼用の照り焼きと、両方作ったのに四月一日が食べるのは照り焼きのほうだ。いただきますと言いながら食べ始めた二人を見ながら、四月一日は煎茶を注ぐ。
「おいしーちょっと辛めに作ってくれたのね」
「その方が好きでしょ、侑子さん。塩以外で味を濃くしてあるから、過剰摂取の心配もないですよ」
「やっぱり四月一日に作ってもらうのが一番だわー」
 先ほど以上にどんどん杯を重ねる侑子の向かい側で、百目鬼も黙々と料理を胃に収めていく。物言う隙間を挟まず食べ続けることが、百目鬼の「美味い」なのだとわかっている四月一日は、嬉しそうな顔で自分の皿も片していった。


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2008年5月再録本予定