我輩はにゃんこである。
にゃんにゃんにゃんの日である。
黒鋼×ファイ
今日はオレの日ですとのたまって、猫は唐突に朝っぱらから消えた。天照の守護筆頭兼旦那も一緒に連れて行った。色々と平和である。
我輩はにゃんこである。
にゃんにゃんにゃんの日である。
「お魚いっぱいだねー」
「魚市場だからな」
猫のくせに、否、元猫のくせに、しっかりと火を通した焼き魚は食えても生魚だけはどうにも駄目なようだ。時折黒鋼は、本当にこいつは猫だろうかと疑うこともある。男の腕にぎゅっと抱きついて、肘付近を大きな胸で押さえ込むような体勢で黒鋼にくっつくファイは、なるべく生の魚の目を見ないようにしながら辺りを見渡していた。
朝っぱらから付き合わされた黒鋼としては非常に気分が悪いはずであるのに、眉間に皺は寄っていなかった。
目覚めた瞬間、上から覗き込む愛らしい顔が覗きこむ。触れそうで触れない大きな胸によって一気に頭が冴え、冷たい手に覚醒した身体が引っ張り上げられた。いついつでも不愉快そのものであるのに更に不機嫌な顔をした男は、擦り寄ってきた妻に考えを改める。随分冷えた細身の身体は、黒鋼が起きるまでずっと傍にいた証拠だからだ。愛しい猫又は、黒鋼を無理に起こすことはせずに、自然に目が覚めるまで待っていたのだ。
「おはよう、黒様」
「……まだ夜だろーが」
「もっかい寝ちゃ駄目だよぅ。ね、起きて出かける準備して」
「……はぁ?」
職業柄黒鋼が本気で寝入ることは無い。眠っているように見えて、その眠りは浅く、庭の木の葉がかさりと動いただけで飛び起きるような具合だ。しかしながら、結界に守られた天照の中で、黒鋼よりも敏感なファイが無防備に傍にいるとなると様子は違う。今すぐに休息を必要とするほど疲れているわけではないけれど、面倒なことはなるべくしたくはなかった。同時に、ファイの困る顔を見たいという下心もあったかもしれない。
「ね、お願い、黒様。今日は何の日か知ってる?」
「……二月の……二十二……なんか、あったか?」
「今日はオレの日だよ!」
「今日が、生まれか?」
生まれたときはまだ生粋の猫で、月も日も、年すら概念になかったはずなのだがと思いつつ、ファイの機嫌を損ねるとどんな報復が待っているかわからないので、無難な路線で返事をする。しかし、それが逆効果だったようで、ファイはばふばふと黒鋼を毛布ごと引っ叩いた。
「違うよ!もーなんでわかんないかなー」
わからんものはわからんと憮然とした態度でいると、今度は布団からも引っ張り出されて手洗い場の方へと背を押してくる。ファイは、怒っているという態度を演じながら、実際は怒ってなどいないのだろう。ただ、黒鋼が素直に言うことに従ってくれるように、わざとむくれて見せるのだ。
「いいから、早く顔洗って」
「飯は?」
「まだ夜なんでしょー」
あげ足を取ってふいとそっぽを向くファイは、黒鋼の目から見て小憎らしくも愛らしい。参ったとばかりに言われるがままに顔を洗い口を濯ぎ、手拭で水気を拭き取ると、温かいお茶が用意されていた。ファイは黒鋼が見たことのない美しい余所行き姿で座り、男物の型揃いの服を手にしていた。機織裁縫を生業としていたファイの手にかかれば容易いことなのだろうが、彼女らしからぬ派手な装いにも見えた。
「一体今日は何なんだ?」
「だから、オレの日」
意味がわからないと首を捻る黒鋼に茶を渡し、畳んであった服を広げ、男が茶を飲み終わるとすぐに着せ掛けられるように構える。あっという間に外出の準備を整えると、ファイは嬉しそうに黒鋼の腕を捕まえ、引っ張るように外に連れ出した。廊下ですれ違う人々には出かけてきますと勝手にのたまう。
一応は妖、猫又を外に出させるわけがないと思っていた知世まで、きっちりお見送りをしてにっこりと微笑んでいる。何がなんだかわからないうちに外に連れ出され、漸く辺りが朝と言える程度に明るくなった所で、二人は活気付いた港の朝市に紛れ込んでいたのだった。
「黒様、オレね、鯛の塩釜焼き食べたい」
「珍しいな。お前が豪華なもんを食いたいっつーのはよ」
「たまにはねー」
食べたいといいつつも、やはり丸ごとの生魚は見れないらしく、黒鋼の陰に隠れながらのおねだりだ。切り身くらいならばなんとか調理は出来るのであろうが、尾頭付きの水揚げされたばかりの生は生理的に駄目なようだ。
「お前、魚好きなくせに苦手なんだな」
「だってー……あ、あっちにお魚じゃないのも売ってる」
「山菜まであるのか」
「じゃあ、ここで待ってるから黒様が鯛買ってきて」
今の距離が限界なのか、ファイはぷるぷる震えながら黒鋼だけをじっと見つめる。猫又が猫であるがゆえに魚は食べたいのだ。非常に食べたいのだが、生は駄目なのだ。
「……そんなに嫌なら目ぇ瞑ってろ」
「うん……」
ぱふ、と頭を軽く撫で、黒鋼は大きな鯛を厳重に包んでもらっていた。姿も臭いも感じ取れないように何重にも包んだ妙な塊を担ぎ、ぎゅっと目を瞑ったままのファイの前に立つ。
「もういいぞ」
「うー……ごめんねー……あの、目が怖いんだよぅ」
「わかったから、行くぞ」
「はーい」
二人はとんでもない注目を集めていたとは露知らず、市場の中を縦横無尽に闊歩する。へにゃりと微笑んだまま黒鋼に寄り添うファイは、異国の娘の姿とはいえ、とんでもなく美しかった。その上、隣にて覇気を発するのは都随一の守護鬼神、この地に住んで知らぬ者は生まれたての赤子くらいのものだ。色々と桁違いの夫婦が通りがかると、人々は皆、商売のため声をかける気すら奪われ、呆けてぼうっと見やるだけだった。
魚とは違って目を輝かせ、荷物持ちがいるからと次々に買い込むファイを横目に、未だ今日が何の日か分かっていない黒鋼の手には大小さまざまな包みが増えていく。これ以上持てないと訴えると、どこからともなく風呂敷を取り出し、袋状にして更に買い込み続けるのだ。
「おい……」
「今日は、黒様は何も言えませーん」
「だから、一体何なんだ……」
「教えませーん。それぐらいわかるでしょーオレの旦那様なんだからー」
あっちにいったりこっちに行ったり、ふらふらと蝶々のように歩き回るファイを視界に捕らえるだけで精一杯かと思えば、べったりと隣にくっついて離れない。もう持てないとファイが判断した時点で買い物は終わる。そしてくるりと後ろを振り返えると音もなく歩き、誰もいないはずの物陰に近づいた。陰には、妖ファイを監視するための僧兵が数名、気まずそうにしている。いつもは彼らを嫌がっているのに、今日ばかりは笑顔まで浮かべ、荷物を持って帰ってとにこやかに命じる。ファイの動向を監視する名目はあれど立場上は黒鋼の部下達、守護鬼神の奥方の命令には逆らえぬ。後ろ髪を惹かれるように、すごすごと天照へ引き下がっていった。
「すっきりしたー」
意趣返しの意もあったのかもしれないが、やっと本当に二人っきりになったとファイは黒鋼の手をとり、小物雑貨を出している市に紛れ込む。
「あれが目的だったのか」
律儀に忍んで天照に戻る黒い影を指差すが、ファイはきょとんとしてふるふると首を振る。どうやら、追い払ったのは成り行き上だったらしく、奴らがいようといまいとどうでも良かったようだ。彼女にとっては、黒鋼と一緒に外にいることが重要で、ただ、荷物が邪魔だったのだろう。
「でも、二人っきりになれてよかったよねー」
「……ああ」
人の視線を感じることのできる者にとっては、些細な監視であったとしても警戒心を湧き起こす。それがないというのは、警戒を解くことはないにしても多少は気が楽というものだ。
「ね、あの簪、可愛い」
「赤の奴か」
「そーそー黒様の目と同じ色」
黒鋼の色を身につけたいというねだられ方は妙に心地良く、しかしそれを顔に出すことはなく機嫌悪そうにしたまま店の売り子に声をかける。少々値の張るものだったようだが、今まで天照から出た給金は酒以外に使うことなく自然と溜まっている上、元々高給な黒鋼にははした金としか思えなかったようだった。本当にこんなものでいいのかと尋ねたのは安すぎるゆえ、ファイは分かっていながらこれがいいのだと微笑む。可愛らしい金魚の飾りの付いた簪は、結われたファイの髪の毛に納まると、金一色の中に華やいだ愛らしさを齎した。
「どう?」
「……悪かねぇな」
「素直に可愛いって言ってくれてもいいんですけどー」
「誰が言うか。化け猫め」
軽口も楽しんでいるのだろう、罵られても笑顔を絶やさないファイは更にべったりと黒鋼にへばりついた。
「お昼、食べに行こうよ。朝ご飯忘れてたから、朝昼兼用でおそば!食べたい!」
「蕎麦か……」
「黒様が美味しいって思うところ、連れていってよぅ」
ねだる言葉の端にほんの少しの寂しさが混じる。余り外に出られない妖としては、黒鋼が一人でいる時間が恨めしくもあり寂しいのだ。そういった顔を見てしまうと、寂しくさせている当人としては、せめて旨い蕎麦の店に連れて行かねばと、眉間の皺を濃くしてファイの手を引いていく。
「黒様ぁ……ゆっくり、行こうよー……そんなにお腹空いてたの?」
強く引かれる手、先導される楽しさ。つい、ゆっくり楽しみたくてファイは足が縺れたふりをする。山道を歩き慣れていた猫が、平らな道で転ぶはずもないのに、黒鋼はファイの身体を抱き上げる。
「く、黒さ……ま……違うよー違うったらーもー!」
「煩い」
恥ずかしさににゃんにゃん喚くファイを無視して、黒鋼はあの百目鬼ですら味を認める一軒の蕎麦屋の暖簾を潜る。昼時で込み合ってはいたが、店の者が黒鋼の姿を認めるや否や奥座敷の方に案内する。待たされていた客達は黒鋼の姿よりも、抱き上げられている異国の美女の方に目がいった様で、まるで天女の御姿に見蕩れるように眺めていた。
「恥ずかしいよーもー黒様の馬鹿ー」
「ちったぁ黙れ」
「降ろしてくれたら静かにする」
耳元でにゃんにゃん騒がれるのに辟易していたのか、奥座敷に着いたからか、黒鋼はファイをすとんとその場に降ろした。脱いだ履物を揃えることなく座敷に上がる。ファイが揃えて座敷に上がろうとするのを女中だろうか、頭を下げて留めた。客にそのようなことをさせるわけにはいかないのだ、仕事を奪わないでくれと言われるとファイにはもう手が出せない。仕方なく黒鋼の向かいに座り、頑張って正座で待つこと一分、二分、そして三分。黒鋼が深い溜息をついてファイから視線を逸らした。
「足を崩せ」
「でもぉ……」
「いいから。どうせまた痺れてんだろ。そんな硬くなって蕎麦食ったって味なんかわかりゃしねーだろーが」
「うう……座り方が変なのかなー……」
座り方も慣れぬ上、細い足ゆえに血管も細いのだろうか、痩せた身体とはいえ体重がかかるとすぐに血が止まり、痺れてしまう。ファイはぷるぷると震えながら足を崩し、ほう、と息をつく。次からは足を伸ばせる店にせねばと黒鋼が肝に銘じたとき、店主自らが注文を窺いにやってきた。
「黒鋼様、奥方様、本日は手前の店にお越し頂き恐悦至極の……」
「俺は笊蕎麦を。お前はどうする?」
「同じのでいいよー」
店主の言葉なんかこれっぽっちも聞いちゃいない。さっさと戻って笊もってこいと黒鋼が一睨みすると、慣れない貴人への対応と極度の緊張からか、本当に飛び上がってすっ転げ、そのままほうほうの体で調理場まで戻っていった。
「ねー黒様」
「なんだ?」
「ざるそばってどんなおそば?」
「……そういえば、お前は年越し蕎麦しか食ったことなかったな……」
奥座敷には品書きなど無く、選択できるほど蕎麦に対しての知識も無い。黒鋼と同じものと言ったのは苦肉の策なのだろう。わさびを入れさせないようにして食わせればいいかと、黒鋼は面倒そうに冷たい蕎麦だとだけ言っておいた。
丁寧にも薬味は一皿ずつに取り分けられていた。わさびの小皿だけ取り上げ、文句を言うファイには七味唐辛子よりも鼻にくると教えると、何も言わずに胡麻だけをつゆに入れる。黒鋼のするようにちょっとだけ黒いつゆに蕎麦を浸け、そして弱々しく啜る。
「美味しい」
「そうか」
良い蕎麦の粉を使っているこの店は、いつ食べても味に変わりがないのだ。怪退治帰りに百目鬼と入ることもあるこの店は、行きつけといっても過言ではないかもしれない。ファイも気に入ったようで、少しずつ、蕎麦を初めて食べる子どもの様に慎重に啜っていた。最後の蕎麦湯も舌に合ったらしく、これまたゆっくりと飲んでいた。
「いいなー黒様。こんな美味しい所にいつでも行けるんだもん」
「……独り身だったときに来ていただけだ。今は三食お前が作ってんだろーが」
「……お弁当……無いほうがいい?」
「んなこと言ってねーだろ!」
思わず大声で言い返してしまった黒鋼は、はっとして気まずそうに目を泳がせて頭をがりがりと掻いた。ファイは何も言わずに黒鋼の言葉をじっと待っている。
「弁当の方が、どこかに寄る手間が省けて、良い」
「これからも作っていいよね?」
「……ああ」
ほわんと桃の花が咲いたような笑みを浮かべたファイを見て、黒鋼は再び目を逸らした。ここが外でなければと思ったのは、今日何回目だろうか。
釣りはいらんと大目の金子を渡し、土下座でもしそうな勢いで頭を下げられるのを見ないふりをしながら、ファイを外へと促す。放っておくとお辞儀合戦でも繰り広げそうだからだ。
「次は何だ?もう帰るか?」
「えっと、真っ白な反物と新しい糸が欲しいのと、そして一緒に甘味処に行って、それから一緒に……」
「一緒に一緒に、一体今日は何なんだ!意味もわからず引っ張りまわして何がしたいんだお前は!」
流石に黒鋼も限界に達したようだ。ファイの行動に文句があるわけではなく、ただ黒鋼自身の理性の限界がきたのだ。ここでファイが帰ると一言漏らせば、飛んで帰って昼間から褥に押し込む気でいる。一喝すれば少しは大人しくなるかと思ったが、逆にまだわからないのかとファイは黒鋼をねめつけた。
「今日は、オレの日……」
「それがわかんねーんだよ」
「二月二十二日、猫の日なの!猫はなんて鳴く?」
「……にゃあ……」
「ほらぁ!今日はね、にゃんにゃんにゃんの日!今日一日はオレが我儘言っていい日だって、知世姫が教えてくれた!」
頭痛ぇと項垂れた黒鋼に罪はないだろう。だが、一緒にいたいのだと、たった一つの我儘で黒鋼の腕に絡まるファイにも罪はないだろう。黒鋼は小さく舌打ちすると、裏路地にファイを連れ込み唐突に口付けた。
「んんーっ……」
激しい接吻に揺れた簪がしゃらりと鳴る。
「ん……ふ……」
きつくファイを抱きしめる腕は少し力が強すぎたが、猫は何も言わず、何も言えず、入り込んできた舌を甘受する。
「ん……ぁ……く、ろ……さ……」
「……誘うような顔すんじゃねーよ……」
「して、な……」
「……俺は、その猫の日とやらにどれだけ付き合えばいいんだよ……」
さっさと帰ってしたいという劣情が読めぬファイではない。しかし、やはり年に一度の外出というか逢引というか、黒鋼と過ごす一日には替えられない。
「あの、ね……」
「……おう」
「一緒にお夕飯作って、一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、オレからしようって言うつもりだったのにね……黒様、先走りすぎ」
くつくつと鈴が鳴るように笑う。無邪気なくせにどこか妖艶な顔をする猫に、黒鋼は降参だと腕で縛り付けていた身体を離す。どうせ、欲しいといった反物も、黒鋼のために染めつけ羽織袴などを作る気でいるに違いない。甘味処は、嫌がらせかもしれないが。
「……栗饅頭なら、食えんこともない」
「本当?オレね、黒糖羊羹食べたい!善哉とか餡蜜も……」
「一つにしろ。どうせ食べきれないんだろ」
「はーい」
するりと擦り寄ってきた猫は、生娘のように頬を紅色に染めて黒鋼の肩にしな垂れた。
余裕を取り戻して表通りを歩いてみると、どれだけ視線がファイに寄せられていたかを今更のように気付く。男達は最初に黒鋼の姿にはっとしつつ、隣の奥方に気付いて鼻の下が伸びている。まるで視線で穢された様な気分になり、不愉快さを顔に出してファイを抱き寄せた。人の目に戸は立てられぬとはよく言ったもの、それでも押し寄せる視線の多さに内心舌打ちをする。それに気付いたファイは、黒鋼の機嫌と反比例するように上機嫌で、笑顔の大盤振る舞いをしてしまって、そしてまた視線が集まる悪循環に陥っていた。
栗饅頭の意外な甘さに顔を顰めながら、渋めのほうじ茶を嚥下する。真向かいでは嬉しそうに羊羹を頬張り、蕩けそうな笑顔を浮かべている。しかし、その笑顔は次第に陰りを見せ始める。甘味処など、大体が女子どもの好むもの、見目麗しい殿方が訪れるようなものではない。そこに不機嫌ながらも好い意味で男臭い男が座っているのだ、真向かいに美女がいたところで女子が目で追ってしまうのは黒鋼の方だ。先ほどまで感じていた黒鋼の嫉妬心を引き受けたように、今度はファイが盛大に妬いてしまっている。
いつもは鈍いくせに、不機嫌に気付いた黒鋼はファイの知らない間に新たに何かを注文し、彼女の目の前にそれを出させた。
「……海苔、を巻いた御餅?」
「磯辺焼きだ」
「……へぇーほぉーふぅーん……焼いた御餅だねぇ……いいよ、どうせ焼餅ですよーだ」
ぱくりと一口齧りつくと、急に涙目になって箸を置く。片方の手は口を押さえ、もう片方は何かを探す。
「どうした?」
「……あつ……」
しっかり火が通った餅の内側はファイには熱すぎたのだが、吐き出すなどという粗相をしないように必死で我慢しているのだ。黒鋼は眉間の皺を濃くして、様子を窺っていた店の者の腕を捕まえる。
「おい、水くれ!」
「は、はい、ただいま!」
運ばれてきた冷たい井戸水がファイの唇と舌を冷やす。薄く引いた口の紅がとれてしまっているのに、赤くなっているのが痛々しい。
「大丈夫か?」
「ん……へーき。ごめんね、黒様」
瞬きをして涙が落ちないように散らしていた。蒼い瞳に涙が絡むと、深い青の色が浮き出て美しい。黒鋼の背をぞくりと走ったものをどう形容すればいいか、彼自身もわからない。ただ勢いよく立ち上がると多めの勘定を叩きつけ、ファイの手をとり外へ連れ出そうとした。
「ちょ、っとまって、御餅、もったいないよー」
「いいから行くぞ」
「だーめ。すいませーん、これ、包んでもらっていいですかー?」
のほほんとしたファイはともかく、苛立つ黒鋼に怯えたのか、驚くような速さで竹の皮に包み手渡した店の者は、二人が出て行って心底ほっとしたに違いない。
2へ
2008年3月掲載書き下ろし
我輩はにゃんこである。
にゃんにゃんにゃんの日である。
「お魚いっぱいだねー」
「魚市場だからな」
猫のくせに、否、元猫のくせに、しっかりと火を通した焼き魚は食えても生魚だけはどうにも駄目なようだ。時折黒鋼は、本当にこいつは猫だろうかと疑うこともある。男の腕にぎゅっと抱きついて、肘付近を大きな胸で押さえ込むような体勢で黒鋼にくっつくファイは、なるべく生の魚の目を見ないようにしながら辺りを見渡していた。
朝っぱらから付き合わされた黒鋼としては非常に気分が悪いはずであるのに、眉間に皺は寄っていなかった。
目覚めた瞬間、上から覗き込む愛らしい顔が覗きこむ。触れそうで触れない大きな胸によって一気に頭が冴え、冷たい手に覚醒した身体が引っ張り上げられた。いついつでも不愉快そのものであるのに更に不機嫌な顔をした男は、擦り寄ってきた妻に考えを改める。随分冷えた細身の身体は、黒鋼が起きるまでずっと傍にいた証拠だからだ。愛しい猫又は、黒鋼を無理に起こすことはせずに、自然に目が覚めるまで待っていたのだ。
「おはよう、黒様」
「……まだ夜だろーが」
「もっかい寝ちゃ駄目だよぅ。ね、起きて出かける準備して」
「……はぁ?」
職業柄黒鋼が本気で寝入ることは無い。眠っているように見えて、その眠りは浅く、庭の木の葉がかさりと動いただけで飛び起きるような具合だ。しかしながら、結界に守られた天照の中で、黒鋼よりも敏感なファイが無防備に傍にいるとなると様子は違う。今すぐに休息を必要とするほど疲れているわけではないけれど、面倒なことはなるべくしたくはなかった。同時に、ファイの困る顔を見たいという下心もあったかもしれない。
「ね、お願い、黒様。今日は何の日か知ってる?」
「……二月の……二十二……なんか、あったか?」
「今日はオレの日だよ!」
「今日が、生まれか?」
生まれたときはまだ生粋の猫で、月も日も、年すら概念になかったはずなのだがと思いつつ、ファイの機嫌を損ねるとどんな報復が待っているかわからないので、無難な路線で返事をする。しかし、それが逆効果だったようで、ファイはばふばふと黒鋼を毛布ごと引っ叩いた。
「違うよ!もーなんでわかんないかなー」
わからんものはわからんと憮然とした態度でいると、今度は布団からも引っ張り出されて手洗い場の方へと背を押してくる。ファイは、怒っているという態度を演じながら、実際は怒ってなどいないのだろう。ただ、黒鋼が素直に言うことに従ってくれるように、わざとむくれて見せるのだ。
「いいから、早く顔洗って」
「飯は?」
「まだ夜なんでしょー」
あげ足を取ってふいとそっぽを向くファイは、黒鋼の目から見て小憎らしくも愛らしい。参ったとばかりに言われるがままに顔を洗い口を濯ぎ、手拭で水気を拭き取ると、温かいお茶が用意されていた。ファイは黒鋼が見たことのない美しい余所行き姿で座り、男物の型揃いの服を手にしていた。機織裁縫を生業としていたファイの手にかかれば容易いことなのだろうが、彼女らしからぬ派手な装いにも見えた。
「一体今日は何なんだ?」
「だから、オレの日」
意味がわからないと首を捻る黒鋼に茶を渡し、畳んであった服を広げ、男が茶を飲み終わるとすぐに着せ掛けられるように構える。あっという間に外出の準備を整えると、ファイは嬉しそうに黒鋼の腕を捕まえ、引っ張るように外に連れ出した。廊下ですれ違う人々には出かけてきますと勝手にのたまう。
一応は妖、猫又を外に出させるわけがないと思っていた知世まで、きっちりお見送りをしてにっこりと微笑んでいる。何がなんだかわからないうちに外に連れ出され、漸く辺りが朝と言える程度に明るくなった所で、二人は活気付いた港の朝市に紛れ込んでいたのだった。
「黒様、オレね、鯛の塩釜焼き食べたい」
「珍しいな。お前が豪華なもんを食いたいっつーのはよ」
「たまにはねー」
食べたいといいつつも、やはり丸ごとの生魚は見れないらしく、黒鋼の陰に隠れながらのおねだりだ。切り身くらいならばなんとか調理は出来るのであろうが、尾頭付きの水揚げされたばかりの生は生理的に駄目なようだ。
「お前、魚好きなくせに苦手なんだな」
「だってー……あ、あっちにお魚じゃないのも売ってる」
「山菜まであるのか」
「じゃあ、ここで待ってるから黒様が鯛買ってきて」
今の距離が限界なのか、ファイはぷるぷる震えながら黒鋼だけをじっと見つめる。猫又が猫であるがゆえに魚は食べたいのだ。非常に食べたいのだが、生は駄目なのだ。
「……そんなに嫌なら目ぇ瞑ってろ」
「うん……」
ぱふ、と頭を軽く撫で、黒鋼は大きな鯛を厳重に包んでもらっていた。姿も臭いも感じ取れないように何重にも包んだ妙な塊を担ぎ、ぎゅっと目を瞑ったままのファイの前に立つ。
「もういいぞ」
「うー……ごめんねー……あの、目が怖いんだよぅ」
「わかったから、行くぞ」
「はーい」
二人はとんでもない注目を集めていたとは露知らず、市場の中を縦横無尽に闊歩する。へにゃりと微笑んだまま黒鋼に寄り添うファイは、異国の娘の姿とはいえ、とんでもなく美しかった。その上、隣にて覇気を発するのは都随一の守護鬼神、この地に住んで知らぬ者は生まれたての赤子くらいのものだ。色々と桁違いの夫婦が通りがかると、人々は皆、商売のため声をかける気すら奪われ、呆けてぼうっと見やるだけだった。
魚とは違って目を輝かせ、荷物持ちがいるからと次々に買い込むファイを横目に、未だ今日が何の日か分かっていない黒鋼の手には大小さまざまな包みが増えていく。これ以上持てないと訴えると、どこからともなく風呂敷を取り出し、袋状にして更に買い込み続けるのだ。
「おい……」
「今日は、黒様は何も言えませーん」
「だから、一体何なんだ……」
「教えませーん。それぐらいわかるでしょーオレの旦那様なんだからー」
あっちにいったりこっちに行ったり、ふらふらと蝶々のように歩き回るファイを視界に捕らえるだけで精一杯かと思えば、べったりと隣にくっついて離れない。もう持てないとファイが判断した時点で買い物は終わる。そしてくるりと後ろを振り返えると音もなく歩き、誰もいないはずの物陰に近づいた。陰には、妖ファイを監視するための僧兵が数名、気まずそうにしている。いつもは彼らを嫌がっているのに、今日ばかりは笑顔まで浮かべ、荷物を持って帰ってとにこやかに命じる。ファイの動向を監視する名目はあれど立場上は黒鋼の部下達、守護鬼神の奥方の命令には逆らえぬ。後ろ髪を惹かれるように、すごすごと天照へ引き下がっていった。
「すっきりしたー」
意趣返しの意もあったのかもしれないが、やっと本当に二人っきりになったとファイは黒鋼の手をとり、小物雑貨を出している市に紛れ込む。
「あれが目的だったのか」
律儀に忍んで天照に戻る黒い影を指差すが、ファイはきょとんとしてふるふると首を振る。どうやら、追い払ったのは成り行き上だったらしく、奴らがいようといまいとどうでも良かったようだ。彼女にとっては、黒鋼と一緒に外にいることが重要で、ただ、荷物が邪魔だったのだろう。
「でも、二人っきりになれてよかったよねー」
「……ああ」
人の視線を感じることのできる者にとっては、些細な監視であったとしても警戒心を湧き起こす。それがないというのは、警戒を解くことはないにしても多少は気が楽というものだ。
「ね、あの簪、可愛い」
「赤の奴か」
「そーそー黒様の目と同じ色」
黒鋼の色を身につけたいというねだられ方は妙に心地良く、しかしそれを顔に出すことはなく機嫌悪そうにしたまま店の売り子に声をかける。少々値の張るものだったようだが、今まで天照から出た給金は酒以外に使うことなく自然と溜まっている上、元々高給な黒鋼にははした金としか思えなかったようだった。本当にこんなものでいいのかと尋ねたのは安すぎるゆえ、ファイは分かっていながらこれがいいのだと微笑む。可愛らしい金魚の飾りの付いた簪は、結われたファイの髪の毛に納まると、金一色の中に華やいだ愛らしさを齎した。
「どう?」
「……悪かねぇな」
「素直に可愛いって言ってくれてもいいんですけどー」
「誰が言うか。化け猫め」
軽口も楽しんでいるのだろう、罵られても笑顔を絶やさないファイは更にべったりと黒鋼にへばりついた。
「お昼、食べに行こうよ。朝ご飯忘れてたから、朝昼兼用でおそば!食べたい!」
「蕎麦か……」
「黒様が美味しいって思うところ、連れていってよぅ」
ねだる言葉の端にほんの少しの寂しさが混じる。余り外に出られない妖としては、黒鋼が一人でいる時間が恨めしくもあり寂しいのだ。そういった顔を見てしまうと、寂しくさせている当人としては、せめて旨い蕎麦の店に連れて行かねばと、眉間の皺を濃くしてファイの手を引いていく。
「黒様ぁ……ゆっくり、行こうよー……そんなにお腹空いてたの?」
強く引かれる手、先導される楽しさ。つい、ゆっくり楽しみたくてファイは足が縺れたふりをする。山道を歩き慣れていた猫が、平らな道で転ぶはずもないのに、黒鋼はファイの身体を抱き上げる。
「く、黒さ……ま……違うよー違うったらーもー!」
「煩い」
恥ずかしさににゃんにゃん喚くファイを無視して、黒鋼はあの百目鬼ですら味を認める一軒の蕎麦屋の暖簾を潜る。昼時で込み合ってはいたが、店の者が黒鋼の姿を認めるや否や奥座敷の方に案内する。待たされていた客達は黒鋼の姿よりも、抱き上げられている異国の美女の方に目がいった様で、まるで天女の御姿に見蕩れるように眺めていた。
「恥ずかしいよーもー黒様の馬鹿ー」
「ちったぁ黙れ」
「降ろしてくれたら静かにする」
耳元でにゃんにゃん騒がれるのに辟易していたのか、奥座敷に着いたからか、黒鋼はファイをすとんとその場に降ろした。脱いだ履物を揃えることなく座敷に上がる。ファイが揃えて座敷に上がろうとするのを女中だろうか、頭を下げて留めた。客にそのようなことをさせるわけにはいかないのだ、仕事を奪わないでくれと言われるとファイにはもう手が出せない。仕方なく黒鋼の向かいに座り、頑張って正座で待つこと一分、二分、そして三分。黒鋼が深い溜息をついてファイから視線を逸らした。
「足を崩せ」
「でもぉ……」
「いいから。どうせまた痺れてんだろ。そんな硬くなって蕎麦食ったって味なんかわかりゃしねーだろーが」
「うう……座り方が変なのかなー……」
座り方も慣れぬ上、細い足ゆえに血管も細いのだろうか、痩せた身体とはいえ体重がかかるとすぐに血が止まり、痺れてしまう。ファイはぷるぷると震えながら足を崩し、ほう、と息をつく。次からは足を伸ばせる店にせねばと黒鋼が肝に銘じたとき、店主自らが注文を窺いにやってきた。
「黒鋼様、奥方様、本日は手前の店にお越し頂き恐悦至極の……」
「俺は笊蕎麦を。お前はどうする?」
「同じのでいいよー」
店主の言葉なんかこれっぽっちも聞いちゃいない。さっさと戻って笊もってこいと黒鋼が一睨みすると、慣れない貴人への対応と極度の緊張からか、本当に飛び上がってすっ転げ、そのままほうほうの体で調理場まで戻っていった。
「ねー黒様」
「なんだ?」
「ざるそばってどんなおそば?」
「……そういえば、お前は年越し蕎麦しか食ったことなかったな……」
奥座敷には品書きなど無く、選択できるほど蕎麦に対しての知識も無い。黒鋼と同じものと言ったのは苦肉の策なのだろう。わさびを入れさせないようにして食わせればいいかと、黒鋼は面倒そうに冷たい蕎麦だとだけ言っておいた。
丁寧にも薬味は一皿ずつに取り分けられていた。わさびの小皿だけ取り上げ、文句を言うファイには七味唐辛子よりも鼻にくると教えると、何も言わずに胡麻だけをつゆに入れる。黒鋼のするようにちょっとだけ黒いつゆに蕎麦を浸け、そして弱々しく啜る。
「美味しい」
「そうか」
良い蕎麦の粉を使っているこの店は、いつ食べても味に変わりがないのだ。怪退治帰りに百目鬼と入ることもあるこの店は、行きつけといっても過言ではないかもしれない。ファイも気に入ったようで、少しずつ、蕎麦を初めて食べる子どもの様に慎重に啜っていた。最後の蕎麦湯も舌に合ったらしく、これまたゆっくりと飲んでいた。
「いいなー黒様。こんな美味しい所にいつでも行けるんだもん」
「……独り身だったときに来ていただけだ。今は三食お前が作ってんだろーが」
「……お弁当……無いほうがいい?」
「んなこと言ってねーだろ!」
思わず大声で言い返してしまった黒鋼は、はっとして気まずそうに目を泳がせて頭をがりがりと掻いた。ファイは何も言わずに黒鋼の言葉をじっと待っている。
「弁当の方が、どこかに寄る手間が省けて、良い」
「これからも作っていいよね?」
「……ああ」
ほわんと桃の花が咲いたような笑みを浮かべたファイを見て、黒鋼は再び目を逸らした。ここが外でなければと思ったのは、今日何回目だろうか。
釣りはいらんと大目の金子を渡し、土下座でもしそうな勢いで頭を下げられるのを見ないふりをしながら、ファイを外へと促す。放っておくとお辞儀合戦でも繰り広げそうだからだ。
「次は何だ?もう帰るか?」
「えっと、真っ白な反物と新しい糸が欲しいのと、そして一緒に甘味処に行って、それから一緒に……」
「一緒に一緒に、一体今日は何なんだ!意味もわからず引っ張りまわして何がしたいんだお前は!」
流石に黒鋼も限界に達したようだ。ファイの行動に文句があるわけではなく、ただ黒鋼自身の理性の限界がきたのだ。ここでファイが帰ると一言漏らせば、飛んで帰って昼間から褥に押し込む気でいる。一喝すれば少しは大人しくなるかと思ったが、逆にまだわからないのかとファイは黒鋼をねめつけた。
「今日は、オレの日……」
「それがわかんねーんだよ」
「二月二十二日、猫の日なの!猫はなんて鳴く?」
「……にゃあ……」
「ほらぁ!今日はね、にゃんにゃんにゃんの日!今日一日はオレが我儘言っていい日だって、知世姫が教えてくれた!」
頭痛ぇと項垂れた黒鋼に罪はないだろう。だが、一緒にいたいのだと、たった一つの我儘で黒鋼の腕に絡まるファイにも罪はないだろう。黒鋼は小さく舌打ちすると、裏路地にファイを連れ込み唐突に口付けた。
「んんーっ……」
激しい接吻に揺れた簪がしゃらりと鳴る。
「ん……ふ……」
きつくファイを抱きしめる腕は少し力が強すぎたが、猫は何も言わず、何も言えず、入り込んできた舌を甘受する。
「ん……ぁ……く、ろ……さ……」
「……誘うような顔すんじゃねーよ……」
「して、な……」
「……俺は、その猫の日とやらにどれだけ付き合えばいいんだよ……」
さっさと帰ってしたいという劣情が読めぬファイではない。しかし、やはり年に一度の外出というか逢引というか、黒鋼と過ごす一日には替えられない。
「あの、ね……」
「……おう」
「一緒にお夕飯作って、一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、オレからしようって言うつもりだったのにね……黒様、先走りすぎ」
くつくつと鈴が鳴るように笑う。無邪気なくせにどこか妖艶な顔をする猫に、黒鋼は降参だと腕で縛り付けていた身体を離す。どうせ、欲しいといった反物も、黒鋼のために染めつけ羽織袴などを作る気でいるに違いない。甘味処は、嫌がらせかもしれないが。
「……栗饅頭なら、食えんこともない」
「本当?オレね、黒糖羊羹食べたい!善哉とか餡蜜も……」
「一つにしろ。どうせ食べきれないんだろ」
「はーい」
するりと擦り寄ってきた猫は、生娘のように頬を紅色に染めて黒鋼の肩にしな垂れた。
余裕を取り戻して表通りを歩いてみると、どれだけ視線がファイに寄せられていたかを今更のように気付く。男達は最初に黒鋼の姿にはっとしつつ、隣の奥方に気付いて鼻の下が伸びている。まるで視線で穢された様な気分になり、不愉快さを顔に出してファイを抱き寄せた。人の目に戸は立てられぬとはよく言ったもの、それでも押し寄せる視線の多さに内心舌打ちをする。それに気付いたファイは、黒鋼の機嫌と反比例するように上機嫌で、笑顔の大盤振る舞いをしてしまって、そしてまた視線が集まる悪循環に陥っていた。
栗饅頭の意外な甘さに顔を顰めながら、渋めのほうじ茶を嚥下する。真向かいでは嬉しそうに羊羹を頬張り、蕩けそうな笑顔を浮かべている。しかし、その笑顔は次第に陰りを見せ始める。甘味処など、大体が女子どもの好むもの、見目麗しい殿方が訪れるようなものではない。そこに不機嫌ながらも好い意味で男臭い男が座っているのだ、真向かいに美女がいたところで女子が目で追ってしまうのは黒鋼の方だ。先ほどまで感じていた黒鋼の嫉妬心を引き受けたように、今度はファイが盛大に妬いてしまっている。
いつもは鈍いくせに、不機嫌に気付いた黒鋼はファイの知らない間に新たに何かを注文し、彼女の目の前にそれを出させた。
「……海苔、を巻いた御餅?」
「磯辺焼きだ」
「……へぇーほぉーふぅーん……焼いた御餅だねぇ……いいよ、どうせ焼餅ですよーだ」
ぱくりと一口齧りつくと、急に涙目になって箸を置く。片方の手は口を押さえ、もう片方は何かを探す。
「どうした?」
「……あつ……」
しっかり火が通った餅の内側はファイには熱すぎたのだが、吐き出すなどという粗相をしないように必死で我慢しているのだ。黒鋼は眉間の皺を濃くして、様子を窺っていた店の者の腕を捕まえる。
「おい、水くれ!」
「は、はい、ただいま!」
運ばれてきた冷たい井戸水がファイの唇と舌を冷やす。薄く引いた口の紅がとれてしまっているのに、赤くなっているのが痛々しい。
「大丈夫か?」
「ん……へーき。ごめんね、黒様」
瞬きをして涙が落ちないように散らしていた。蒼い瞳に涙が絡むと、深い青の色が浮き出て美しい。黒鋼の背をぞくりと走ったものをどう形容すればいいか、彼自身もわからない。ただ勢いよく立ち上がると多めの勘定を叩きつけ、ファイの手をとり外へ連れ出そうとした。
「ちょ、っとまって、御餅、もったいないよー」
「いいから行くぞ」
「だーめ。すいませーん、これ、包んでもらっていいですかー?」
のほほんとしたファイはともかく、苛立つ黒鋼に怯えたのか、驚くような速さで竹の皮に包み手渡した店の者は、二人が出て行って心底ほっとしたに違いない。
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