黒鋼×ファイ
伸ばされた手を拒めば、貴方はきっと蔑むのだろう。
微笑んで見せれば、貴方はきっと哀れむのだろう。
嫌われたくないのに、嫌いになるようにしか振舞えない自分に吐き気がする。
愛しているのです、愛しているのです、愛しているのです。
愛しているのです。
愛されたいのです。
蔑んで哀れんでそして愛して
ぼたりと形容するのが的確だといつも思う。黒い服で全身を覆った男は皆を見失わないように気をつけながら、落とされた宙の狭間で重力に従い、木々の隙間にすたんと降り立った。同じように乱れることなく降り立った金髪碧眼の美人、そして同じく金髪の愛らしい少女に手を貸して降り立った利発そうな少年は、警戒心を解くことなく辺りを見回す。次元移動という強大な力を行使した奇妙な生き物は、少女の腕に抱かれて寛ぎ始めた。平和そのものな鳥の声が響き、見るからに草食動物といった生き物ががさがさと茂みを揺さぶるだけで、緑の葉から零れた陽の光が四人と一匹を照らしている。
「……大丈夫そうだねー」
「そう、ですね……ここでは危険な気配は感じません」
のほほんといった感じで周囲を眺めるファイに、小狼もまた少しだけ緊張を解いてサクラに微笑んで見せた。
「モコナ、羽の気配はある?」
「わかんない……でも、強い力があっちから感じるのー」
「調べるしかないですね」
めきょっとはならないけれど違和感を感じたモコナが妙な顔をしたまま、温かなサクラの胸に埋まり、少し疲れたのーと可愛らしい声をあげてすっと目を閉じる。四人は顔を見合わせて仕方がないかと目だけで意思を確認しあった。
「いつも通り調べなきゃなんねーんだな」
「じゃあーいつも通り、オレと黒たんで色々探してくるよー服もねー」
「でしたら俺と、サクラ姫はここで待ってた方がいいですね」
「危険だったら移動してねー」
「はい、わかってます」
子どもの言い聞かせるように優しく言うファイに、優等生の台詞を返す小狼は、力強く頷いた。
「それでいいよね、黒様」
「おう」
顔を覗き込むようににっこりと笑ったファイにおざなりに返事をした黒鋼は、待って待ってと小走りになる美貌の魔法使いを無視してさくさくと先に進む。
「もう、待ってったら」
わざと身体をくねらせて、下から見上げるようにして斜め後ろを陣取ると、ファイは無愛想な顔をしたままの黒鋼を一層面白そうな目で見つめた。妙なことに、ファイは黒鋼がこうして自分を無視して男らしく颯爽と先を歩いて行くのが好きなのだ。危険かもしれない先頭を引き受け、時には危険である殿を引き受け、機嫌が悪そうに振舞ったまま守ってくれるのだから。
「黒りん」
返事はない。だが、ほんの少しだけ歩みが弱まる。その無意識の気遣いがファイには愛しくて堪らない。黒鋼は黒鋼で、図体はひょろ長いくせにちょこまかとついてくるファイの存在が、苛立ちと共に保護欲を呼び起こさせているようだった。
「早くしろ」
「はぁーい」
素直じゃない黒鋼が可愛いと口元が緩むファイは、一定の距離を保ったまま、黒鋼に付かず離れず、だが決してその肌が触れることはない。皮膚と皮膚の間に分厚いフィルムが貼ってあるかのように、触れてはいけない触れられない壁をファイ自ら作り上げている。たとえ、その障壁がなかったとしても、黒鋼は簡単に触れられる事を嫌うであろうから、それでいいのだとわかっていた。だが、この身体が、黒鋼に触れたらどんな化学反応を起こすのだろうか、ファイは持ってはいけない好奇心にそっと蓋をして心の奥底に仕舞い込んだ。
「水の香りがするね」
「流れる音もするな」
町を目指して歩き続けた二人の目には大きな川縁が映る。限りなく透明度の高い綺麗な水が流れ、そして土壌を削り、それが眼下に広がる町の中心へと流れ着いている。そしてその先は碧が広がっていた。見ただけではそれが海と呼ばれるものか、湖と呼ばれるものかわからない。ただ、空の青とは違う美しい碧が只管に続いているのだ。
「うわぁー綺麗だねー」
「綺麗だからって安全って訳じゃねーだろ」
水の碧、空の青、草木の藍、そして人工物の白さとの対比に少し目を奪われたようだったが、黒鋼は町へと続く獣道を見つけると、そこに足を踏み出す。ファイが自らの瞳と同じ系統の色に見とれている間に、黒鋼はもう手の届かない場所にまで進んでいってしまっていた。
「そうだけどさ。ちょっとくらい景色眺めたっていいじゃんか」
「あいつら待たせてんだ。さっさと行くぞ」
「……うん、そうだったね。ごめん」
少し反省したようなファイは少し小走りで追いかけ、黒鋼まであとちょっとというところで止まることなく男に飛びついた。何をするのかと怒鳴り声を上げようとした黒鋼は垣間見た真剣な表情と、傾いた身体の頭上を通り抜けて行った風の流れに何も言えず、逆にファイの頭を守るように抱え込んで受身を取った。起き上がろうとするとその上に新たな矢が打ち込まれる。鋭い鏃のついたそれは深く木に刺さり、再び放たれた矢は斜めに地に突き刺さった。
「おかしいな、しとめたと思ったのに」
獣道を選んでいたのが災いしたのか、二人の姿は草に隠されて狩人からは見えないらしい。狩人が狙っているのは獣だと仮定し姿を見せた場合のリスク、狩人が狙っているのは獣ではなく人間の場合に姿を見せた際のリスク、二つを考慮した黒鋼は、今音を立てること自体が危険だと判断してファイを伴ったまま息を潜めた。
ファイにも黒鋼の意図は理解できたし身動きする気もなかったが、抱きすくめられているような体勢に眩暈がするのだ。先ほど、本当につい先ほど触れてはいけないと誓ったはずで、だが今は非常事態で、それでも触れていることには変わりはないと、アンビバレンスに頭の中が掻き混ぜられているようだ。
「何かいたのかい?」
先ほどとは別の声がする。仲間のようだが、二人だけという保証はない。
「さっき黒っぽいのが見えたからさ。熊かと思って……錯覚かな?」
「もうちょっと確かめてから射るようにしなさい。人だったら洒落にならないだろう?」
「でもなぁ……」
会話の内容を盗み聞き、二人は目だけ見合わせて少しほっとした。人を殺してはならないという彼らの世界の常識が通じない次元だってあるのだ。人を殺してはならない共通認識があっても、居住区に近づく者は構うことなく殺してしまう掟かもしれないのだ。だが、そこまでしつこくはなかったらしく、がさがさと遠ざかっていく足音がして、そして静けさが戻った。しばらくそのままに耳を澄まし、神経を研ぎ澄ませていたが、大丈夫だと知れると二人はほぼ同時に身体の力を抜いた。へにょ、とファイの頭が黒鋼の胸元に凭れ、白金の髪の毛がふわりと広がる。そこから、甘いような仄かな花の香りが漂ったのを黒鋼は感じていたが、何故だか訊いてはいけないような気がして口を開くことはなかった。
「びっくりしたねー……キラッて光って危ないって思ったら矢が飛んで来るんだもん。でも、ごめんね。オレが飛び掛んなくても、黒たん避けようとしてたでしょ?ごめんね」
「……別に、構わん」
「うん。でも、ごめんね」
まさかいい香りがしたから別に怒っていないとも言えず、むすりとした顔でファイを見る。歳近いように見えるが、中身はやけに老成しているくせに言動はへにゃへにゃしている綺麗な顔をした魔法使いの、少し沈んだような笑顔がまともに見れず、すぐに視線を逸らしてしまった。黒鋼はしまったと思ったが、態度を取り消すことなどできず、仕方なくファイの頭に置いた手を離して彼が起き上がるのをじっと待っていた。
「ごめんね」
もう一度囁くように謝ったファイは、黒鋼からそっと身体を離してあっという間に立ち上がると、地面と仲良くしている男にそっと手を出す。ファイもまた、自然な流れで手を出してしまい、しまったと顔を引きつらせるが、出してしまったものを引っ込めることは出来ずにそのまま黒鋼を見つめていた。呆れたような疲れたような溜息の後、ファイの手を借りることなく立ち上がった黒鋼は、柔らかな白金の髪に緑の葉が絡まっているのを見る。
「おい」
「ふぇ?」
怒ったようにファイをねめつけ、葉をするりと抜き取ると、はらりとそれを地に捨て去った。また、あの甘い香りが漂った。
「あ、ありがとね、黒様」
にへらっと笑ったファイは、葉を取り除いてもらったことより、漸く手を引っ込めることが出来て少しほっとしたようだった。
「……急ぐぞ」
「うん」
妙な間が流れたような気がしたが、ファイも黒鋼もあえて気付かないふりをして、そして遠目からは白く見えた町並みに少しずつ近づいて行った。
森の中では物騒な警備をしていたのに、街に入るときには大きな門くらいしかなく、誰でもいつでも入れるような作りになっていた。観察するように歩くとぱっと目を引くのはきっちりと着込んだ女性、彼女達に負けじとばかりにかっちりとした正装をした男達が女性の傍を歩いている。男の一人歩きは見かけても、女性の一人歩きは全く見当たらない。しかし、高級そうな服に身を包んでいるのは街を歩く半数で、後の半数は庶民階級とでも言おうか、見映えはよくともあまりよい材質ではないようだ。しかし、こちらも女性はきっちりと着込んでしまっている上、一人でいるのは見当たらない。
「女性一人だとなんか拙いのかな……」
「さあな」
人では多いが、建物自体はそこまで大きいというわけではない。ただ、寺院のような場所か、それなりに奥まった場所にある建物は酷く大きく見えた。整然とした町並みに、綺麗に舗装された道、だけれども網の目のように光が行き届かない場所には人相の悪い者が屯している。二人は人ごみを避けるように歩き、いつもの通り質屋を見つけると、頑丈な木の扉をギィと軋ませながら中に入った。
「すみませーん」
「いらっしゃい……と、旅の人かね」
「わかりますー?」
「服でな。この国では女は女、男は男と分かり易い格好しかせんからな」
「へぇーそうなんですかぁ」
どうやら人が良さそうな店主であるらしいと判断したファイは、この国でのお金の価値、そして気候風土に文化、そして変わったことは起きていないかを尋ねた。勿論、今までに手に入れた品物を見せるついでなので、黒鋼にとってはまどろっこしいことこの上ないだろうが、足を踏んで黙らせた。
「これは……宝石かね?」
「原石、のようなものですねー。ところで、ここに来る途中、弓矢を持った人がいたんですけどー」
「警備隊の真似事をしておるガキ共だな。隊員は皆成人以上の選ばれた者達ばかりで銃を持っているもんだ」
「憧れてるのかなー?でも、人に向けて撃っちゃいけないと思うんだけど」
驚いたような初老の店主は信じられんと呟きながら、ファイに宝石の代金を書いたメモを見せた。ファイはそれを見て隣に、この国の平均的な宿屋の一泊の料金、食事代を尋ねる。
「撃たれたのかね?もし今度そんなことあったら正規の警備隊に言うがいい。王が中心となって取り締まってくれるさ」
「この国は、王政なの?」
店主はこういったことに慣れているのか会話を続けながら、メモ紙にファイが尋ねた料金やお金の換算価値まで書いてくれた。宝石の値段からするとそれらは結構安価で、しばらく暮らしていくには困らない。
「そうだ。わし等が平穏無事に暮らしていけるのは王が公平なる政治を行い、王が先頭に立って自治をして下さってるおかげだ」
「王様って強い人なの?強い力を使ったりするの?」
「当たり前だ!武術に優れ、時に貴族に扮して街中を視察なさっていたりする。その上、精悍な顔つきで王妃候補はわんさといるんだが……」
「独身なの?」
まるで我が孫のようにでも思っているのだろうか、店主は少し残念そうな顔で声を潜め、まだ王は独り身なのだと嘆いた。とは言うものの、この国で成人とされる十八の齢を過ぎて二年、つまりは二十になったばかりなのだが、どうやら王族の平均からして異例の遅さなのだそうだ。
「現王は、愛する人を一人だけ王妃にしたいのだそうだ。寵妃を持つのが嗜みという王族の慣習を壊したいのだと。だからこそ、今までにないほどに貴族の娘は王に愛されたいと金に糸目をつけず自身を磨く。その結果、我ら民衆は潤う。それもまた、王のおかげなのだ」
「だからあんなにきっちり着込んでたんだねー」
「外で顔以外の肌を見せることは貞操観念の欠落と見られる。おまえさんも今以上に着込んで身体の線を隠し、軽く見られんようにしたほうが良いぞ。王が頑張っておられるが、やはり裏家業を営む輩も少なからずおるからな……というか、お前さんは細すぎるなぁ。ふっくらした上品なドレスを着るといい。ここを出て左に三軒行ったところが老舗だから頼むと良いのを見立ててくれるさ」
「うん、ありがとー」
綺麗なファイがよほど心配になったのだろうか、店主はその他宿屋やら宝飾品店の地図まで書いてくれた上に、宝石の質値まで奮発してくれた。お金は全て硬貨で手渡される。何百枚か入った皮袋はかなりの重さだったが、黒鋼が横から奪い取るようにして軽々と肩に担いだ。
「終わったんなら行くぞ」
「はーい。ありがとね、おじさん」
好々爺のような店主に笑顔を向けたファイは、店をさっさと出ようとする黒鋼の後を追う。しかし後一歩といった所で立ち止まり、くるりと振り返ると最後に、と口を開いた。
「魔法をね、使う人っている?」
「何だね、その魔法とやらは?」
「……知らないならいいんだ。ありがと」
「ああ、気をつけなさい」
ファイは自身を見据えるような黒鋼の視線を真正面から捕らえ、わざとニコリと笑いながら何か、と問うた。
「別に」
「黒たんの嘘つきー」
「うるせぇ。行くぞ。服買うんだろ」
「うん。サクラちゃんのは滅茶苦茶可愛いのにしようねー」
スキップでもしそうなファイを横目に、黒鋼は改めて周囲の人々の服を見やった。先ほどの店主の言っていたような、ふっくらとした上品なドレスを着ている女性は何人か見受けられるが、ファイほどはっきりと分かる美しさは持ち合わせていない。
「お前はいいのか」
「え?何が?」
「……なんでもねー」
「えー気になるよー」
五月蝿いと怒鳴ったが、くにゃりと視線が纏わりついてくるのが分かる。ファイが着飾ればどれほど美しいか、危惧した店主の気持ちが今初めて分かったのだ。チッと舌打ちしても、この国には暫く滞在しなければならないことくらいは理解している。
「面倒だ……」
今度はファイには聞こえないように、口の中だけで呟く。ファイが美しくなる事で、光りに吸い寄せられる蛾の様に近寄ってくる男共がいるのは今までにもあったことだ。しかし、何故か釈然としない。
触れた身体が柔らかかったせいだろうか。
甘い香りがしたせいだろうか。
黒鋼の自問自答は尽きることなく、気がつけば彼の衣装までファイに勝手に決められていた。
2
2007年11月〜連載中、2008年1月再録本発行予定
微笑んで見せれば、貴方はきっと哀れむのだろう。
嫌われたくないのに、嫌いになるようにしか振舞えない自分に吐き気がする。
愛しているのです、愛しているのです、愛しているのです。
愛しているのです。
愛されたいのです。
蔑んで哀れんでそして愛して
ぼたりと形容するのが的確だといつも思う。黒い服で全身を覆った男は皆を見失わないように気をつけながら、落とされた宙の狭間で重力に従い、木々の隙間にすたんと降り立った。同じように乱れることなく降り立った金髪碧眼の美人、そして同じく金髪の愛らしい少女に手を貸して降り立った利発そうな少年は、警戒心を解くことなく辺りを見回す。次元移動という強大な力を行使した奇妙な生き物は、少女の腕に抱かれて寛ぎ始めた。平和そのものな鳥の声が響き、見るからに草食動物といった生き物ががさがさと茂みを揺さぶるだけで、緑の葉から零れた陽の光が四人と一匹を照らしている。
「……大丈夫そうだねー」
「そう、ですね……ここでは危険な気配は感じません」
のほほんといった感じで周囲を眺めるファイに、小狼もまた少しだけ緊張を解いてサクラに微笑んで見せた。
「モコナ、羽の気配はある?」
「わかんない……でも、強い力があっちから感じるのー」
「調べるしかないですね」
めきょっとはならないけれど違和感を感じたモコナが妙な顔をしたまま、温かなサクラの胸に埋まり、少し疲れたのーと可愛らしい声をあげてすっと目を閉じる。四人は顔を見合わせて仕方がないかと目だけで意思を確認しあった。
「いつも通り調べなきゃなんねーんだな」
「じゃあーいつも通り、オレと黒たんで色々探してくるよー服もねー」
「でしたら俺と、サクラ姫はここで待ってた方がいいですね」
「危険だったら移動してねー」
「はい、わかってます」
子どもの言い聞かせるように優しく言うファイに、優等生の台詞を返す小狼は、力強く頷いた。
「それでいいよね、黒様」
「おう」
顔を覗き込むようににっこりと笑ったファイにおざなりに返事をした黒鋼は、待って待ってと小走りになる美貌の魔法使いを無視してさくさくと先に進む。
「もう、待ってったら」
わざと身体をくねらせて、下から見上げるようにして斜め後ろを陣取ると、ファイは無愛想な顔をしたままの黒鋼を一層面白そうな目で見つめた。妙なことに、ファイは黒鋼がこうして自分を無視して男らしく颯爽と先を歩いて行くのが好きなのだ。危険かもしれない先頭を引き受け、時には危険である殿を引き受け、機嫌が悪そうに振舞ったまま守ってくれるのだから。
「黒りん」
返事はない。だが、ほんの少しだけ歩みが弱まる。その無意識の気遣いがファイには愛しくて堪らない。黒鋼は黒鋼で、図体はひょろ長いくせにちょこまかとついてくるファイの存在が、苛立ちと共に保護欲を呼び起こさせているようだった。
「早くしろ」
「はぁーい」
素直じゃない黒鋼が可愛いと口元が緩むファイは、一定の距離を保ったまま、黒鋼に付かず離れず、だが決してその肌が触れることはない。皮膚と皮膚の間に分厚いフィルムが貼ってあるかのように、触れてはいけない触れられない壁をファイ自ら作り上げている。たとえ、その障壁がなかったとしても、黒鋼は簡単に触れられる事を嫌うであろうから、それでいいのだとわかっていた。だが、この身体が、黒鋼に触れたらどんな化学反応を起こすのだろうか、ファイは持ってはいけない好奇心にそっと蓋をして心の奥底に仕舞い込んだ。
「水の香りがするね」
「流れる音もするな」
町を目指して歩き続けた二人の目には大きな川縁が映る。限りなく透明度の高い綺麗な水が流れ、そして土壌を削り、それが眼下に広がる町の中心へと流れ着いている。そしてその先は碧が広がっていた。見ただけではそれが海と呼ばれるものか、湖と呼ばれるものかわからない。ただ、空の青とは違う美しい碧が只管に続いているのだ。
「うわぁー綺麗だねー」
「綺麗だからって安全って訳じゃねーだろ」
水の碧、空の青、草木の藍、そして人工物の白さとの対比に少し目を奪われたようだったが、黒鋼は町へと続く獣道を見つけると、そこに足を踏み出す。ファイが自らの瞳と同じ系統の色に見とれている間に、黒鋼はもう手の届かない場所にまで進んでいってしまっていた。
「そうだけどさ。ちょっとくらい景色眺めたっていいじゃんか」
「あいつら待たせてんだ。さっさと行くぞ」
「……うん、そうだったね。ごめん」
少し反省したようなファイは少し小走りで追いかけ、黒鋼まであとちょっとというところで止まることなく男に飛びついた。何をするのかと怒鳴り声を上げようとした黒鋼は垣間見た真剣な表情と、傾いた身体の頭上を通り抜けて行った風の流れに何も言えず、逆にファイの頭を守るように抱え込んで受身を取った。起き上がろうとするとその上に新たな矢が打ち込まれる。鋭い鏃のついたそれは深く木に刺さり、再び放たれた矢は斜めに地に突き刺さった。
「おかしいな、しとめたと思ったのに」
獣道を選んでいたのが災いしたのか、二人の姿は草に隠されて狩人からは見えないらしい。狩人が狙っているのは獣だと仮定し姿を見せた場合のリスク、狩人が狙っているのは獣ではなく人間の場合に姿を見せた際のリスク、二つを考慮した黒鋼は、今音を立てること自体が危険だと判断してファイを伴ったまま息を潜めた。
ファイにも黒鋼の意図は理解できたし身動きする気もなかったが、抱きすくめられているような体勢に眩暈がするのだ。先ほど、本当につい先ほど触れてはいけないと誓ったはずで、だが今は非常事態で、それでも触れていることには変わりはないと、アンビバレンスに頭の中が掻き混ぜられているようだ。
「何かいたのかい?」
先ほどとは別の声がする。仲間のようだが、二人だけという保証はない。
「さっき黒っぽいのが見えたからさ。熊かと思って……錯覚かな?」
「もうちょっと確かめてから射るようにしなさい。人だったら洒落にならないだろう?」
「でもなぁ……」
会話の内容を盗み聞き、二人は目だけ見合わせて少しほっとした。人を殺してはならないという彼らの世界の常識が通じない次元だってあるのだ。人を殺してはならない共通認識があっても、居住区に近づく者は構うことなく殺してしまう掟かもしれないのだ。だが、そこまでしつこくはなかったらしく、がさがさと遠ざかっていく足音がして、そして静けさが戻った。しばらくそのままに耳を澄まし、神経を研ぎ澄ませていたが、大丈夫だと知れると二人はほぼ同時に身体の力を抜いた。へにょ、とファイの頭が黒鋼の胸元に凭れ、白金の髪の毛がふわりと広がる。そこから、甘いような仄かな花の香りが漂ったのを黒鋼は感じていたが、何故だか訊いてはいけないような気がして口を開くことはなかった。
「びっくりしたねー……キラッて光って危ないって思ったら矢が飛んで来るんだもん。でも、ごめんね。オレが飛び掛んなくても、黒たん避けようとしてたでしょ?ごめんね」
「……別に、構わん」
「うん。でも、ごめんね」
まさかいい香りがしたから別に怒っていないとも言えず、むすりとした顔でファイを見る。歳近いように見えるが、中身はやけに老成しているくせに言動はへにゃへにゃしている綺麗な顔をした魔法使いの、少し沈んだような笑顔がまともに見れず、すぐに視線を逸らしてしまった。黒鋼はしまったと思ったが、態度を取り消すことなどできず、仕方なくファイの頭に置いた手を離して彼が起き上がるのをじっと待っていた。
「ごめんね」
もう一度囁くように謝ったファイは、黒鋼からそっと身体を離してあっという間に立ち上がると、地面と仲良くしている男にそっと手を出す。ファイもまた、自然な流れで手を出してしまい、しまったと顔を引きつらせるが、出してしまったものを引っ込めることは出来ずにそのまま黒鋼を見つめていた。呆れたような疲れたような溜息の後、ファイの手を借りることなく立ち上がった黒鋼は、柔らかな白金の髪に緑の葉が絡まっているのを見る。
「おい」
「ふぇ?」
怒ったようにファイをねめつけ、葉をするりと抜き取ると、はらりとそれを地に捨て去った。また、あの甘い香りが漂った。
「あ、ありがとね、黒様」
にへらっと笑ったファイは、葉を取り除いてもらったことより、漸く手を引っ込めることが出来て少しほっとしたようだった。
「……急ぐぞ」
「うん」
妙な間が流れたような気がしたが、ファイも黒鋼もあえて気付かないふりをして、そして遠目からは白く見えた町並みに少しずつ近づいて行った。
森の中では物騒な警備をしていたのに、街に入るときには大きな門くらいしかなく、誰でもいつでも入れるような作りになっていた。観察するように歩くとぱっと目を引くのはきっちりと着込んだ女性、彼女達に負けじとばかりにかっちりとした正装をした男達が女性の傍を歩いている。男の一人歩きは見かけても、女性の一人歩きは全く見当たらない。しかし、高級そうな服に身を包んでいるのは街を歩く半数で、後の半数は庶民階級とでも言おうか、見映えはよくともあまりよい材質ではないようだ。しかし、こちらも女性はきっちりと着込んでしまっている上、一人でいるのは見当たらない。
「女性一人だとなんか拙いのかな……」
「さあな」
人では多いが、建物自体はそこまで大きいというわけではない。ただ、寺院のような場所か、それなりに奥まった場所にある建物は酷く大きく見えた。整然とした町並みに、綺麗に舗装された道、だけれども網の目のように光が行き届かない場所には人相の悪い者が屯している。二人は人ごみを避けるように歩き、いつもの通り質屋を見つけると、頑丈な木の扉をギィと軋ませながら中に入った。
「すみませーん」
「いらっしゃい……と、旅の人かね」
「わかりますー?」
「服でな。この国では女は女、男は男と分かり易い格好しかせんからな」
「へぇーそうなんですかぁ」
どうやら人が良さそうな店主であるらしいと判断したファイは、この国でのお金の価値、そして気候風土に文化、そして変わったことは起きていないかを尋ねた。勿論、今までに手に入れた品物を見せるついでなので、黒鋼にとってはまどろっこしいことこの上ないだろうが、足を踏んで黙らせた。
「これは……宝石かね?」
「原石、のようなものですねー。ところで、ここに来る途中、弓矢を持った人がいたんですけどー」
「警備隊の真似事をしておるガキ共だな。隊員は皆成人以上の選ばれた者達ばかりで銃を持っているもんだ」
「憧れてるのかなー?でも、人に向けて撃っちゃいけないと思うんだけど」
驚いたような初老の店主は信じられんと呟きながら、ファイに宝石の代金を書いたメモを見せた。ファイはそれを見て隣に、この国の平均的な宿屋の一泊の料金、食事代を尋ねる。
「撃たれたのかね?もし今度そんなことあったら正規の警備隊に言うがいい。王が中心となって取り締まってくれるさ」
「この国は、王政なの?」
店主はこういったことに慣れているのか会話を続けながら、メモ紙にファイが尋ねた料金やお金の換算価値まで書いてくれた。宝石の値段からするとそれらは結構安価で、しばらく暮らしていくには困らない。
「そうだ。わし等が平穏無事に暮らしていけるのは王が公平なる政治を行い、王が先頭に立って自治をして下さってるおかげだ」
「王様って強い人なの?強い力を使ったりするの?」
「当たり前だ!武術に優れ、時に貴族に扮して街中を視察なさっていたりする。その上、精悍な顔つきで王妃候補はわんさといるんだが……」
「独身なの?」
まるで我が孫のようにでも思っているのだろうか、店主は少し残念そうな顔で声を潜め、まだ王は独り身なのだと嘆いた。とは言うものの、この国で成人とされる十八の齢を過ぎて二年、つまりは二十になったばかりなのだが、どうやら王族の平均からして異例の遅さなのだそうだ。
「現王は、愛する人を一人だけ王妃にしたいのだそうだ。寵妃を持つのが嗜みという王族の慣習を壊したいのだと。だからこそ、今までにないほどに貴族の娘は王に愛されたいと金に糸目をつけず自身を磨く。その結果、我ら民衆は潤う。それもまた、王のおかげなのだ」
「だからあんなにきっちり着込んでたんだねー」
「外で顔以外の肌を見せることは貞操観念の欠落と見られる。おまえさんも今以上に着込んで身体の線を隠し、軽く見られんようにしたほうが良いぞ。王が頑張っておられるが、やはり裏家業を営む輩も少なからずおるからな……というか、お前さんは細すぎるなぁ。ふっくらした上品なドレスを着るといい。ここを出て左に三軒行ったところが老舗だから頼むと良いのを見立ててくれるさ」
「うん、ありがとー」
綺麗なファイがよほど心配になったのだろうか、店主はその他宿屋やら宝飾品店の地図まで書いてくれた上に、宝石の質値まで奮発してくれた。お金は全て硬貨で手渡される。何百枚か入った皮袋はかなりの重さだったが、黒鋼が横から奪い取るようにして軽々と肩に担いだ。
「終わったんなら行くぞ」
「はーい。ありがとね、おじさん」
好々爺のような店主に笑顔を向けたファイは、店をさっさと出ようとする黒鋼の後を追う。しかし後一歩といった所で立ち止まり、くるりと振り返ると最後に、と口を開いた。
「魔法をね、使う人っている?」
「何だね、その魔法とやらは?」
「……知らないならいいんだ。ありがと」
「ああ、気をつけなさい」
ファイは自身を見据えるような黒鋼の視線を真正面から捕らえ、わざとニコリと笑いながら何か、と問うた。
「別に」
「黒たんの嘘つきー」
「うるせぇ。行くぞ。服買うんだろ」
「うん。サクラちゃんのは滅茶苦茶可愛いのにしようねー」
スキップでもしそうなファイを横目に、黒鋼は改めて周囲の人々の服を見やった。先ほどの店主の言っていたような、ふっくらとした上品なドレスを着ている女性は何人か見受けられるが、ファイほどはっきりと分かる美しさは持ち合わせていない。
「お前はいいのか」
「え?何が?」
「……なんでもねー」
「えー気になるよー」
五月蝿いと怒鳴ったが、くにゃりと視線が纏わりついてくるのが分かる。ファイが着飾ればどれほど美しいか、危惧した店主の気持ちが今初めて分かったのだ。チッと舌打ちしても、この国には暫く滞在しなければならないことくらいは理解している。
「面倒だ……」
今度はファイには聞こえないように、口の中だけで呟く。ファイが美しくなる事で、光りに吸い寄せられる蛾の様に近寄ってくる男共がいるのは今までにもあったことだ。しかし、何故か釈然としない。
触れた身体が柔らかかったせいだろうか。
甘い香りがしたせいだろうか。
黒鋼の自問自答は尽きることなく、気がつけば彼の衣装までファイに勝手に決められていた。
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